逆噴射小説大賞2023ライナーノーツ【後編】
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セイント
◯二作目。麻雀もの(のような何か)。
◯二作目を書くに当たり、おれはどのような作風のパルプを書くべきかについて悩んでいた。
昨年、おれは『ロストジャイヴ』『月面着火』の二作をこの賞に応募した。片やアクション、片やSF。両作ともに、いかにもパルプという感じの作風だ。結果はどちらも二次選考を通過し、そしてどちらも最終選考に至っていない。
◯二次選考突破の時点で十分誇れる実績には違いない。だが賞レースに参加する以上、出来うる限り上を目指したいのは当然だ。だからこそ前回はパルプの王道と思える作風を書いたつもりだったが、結局突き抜けることは出来なかった。
最終選考、そして大賞を狙うにあたって、前回の路線のままクオリティを上げたモノを書くべきか。あるいは全く違うモノを書くべきか。そして何を書くか以前に、そもそも自分には何が書けるのか。
賞レースで勝つことと、自分らしさを表現すること。その塩梅が全く掴めていなかった。
◯それでもひとまずの方針としては、いかにもパルプという感じのやつを書こうと思っていた。過去応募作でいうと、昨年の『ロストジャイヴ』や一昨年の『アンジー・ラナウェイ・オーヴァドライヴ』のようなアクションものだ。
一作目に堅苦しい時代小説を書いたから、次は逆の毛色で行きたい。それに、おれの作品を好いてくれる人はそういうドンパチものを好まれている気がする。おこがましい物言いだし的外れかもしれないが、とにかく読み手の期待に応えたいと思っていた。
◯大賞開催日から一週間が経ったころ、友人の一人に二作目は書かないのかと聞かれた。おれは上記の考えを述べた。
おれがしゃべり終えると、友人は言った。
嫌な予感がした。
自分でも薄々疑問に思いつつも、深く考えるのがしんどいから蓋をした部分。その部分に無理やり向き合わされる予感だった。
案の定、おれが最も触れたくなかった部分への言及だった。おれは激しく、しかしできる限りの論理を尽くして抵抗した。
賞レースに参戦する以上、勝ちに行く作品を創るのは当然だ。そのためには緻密な計算や考察が欠かせない。それなのにお前は好きに書け、言い換えれば野放図に書けという。日頃のエッセイや私小説ならともかく、エンタメ小説のコンテストで野放図に書けというのは無理な注文だ。そんな書き方でハイクオリティな作品が生み出せるはずがない。
抗うおれに、友人はさらに言葉を継いだ。
おれは黙りこんだ。何も言い返せなかった。
2年前からこの大賞に参戦して以来、自分なりに面白いと思えるパルプを書いてきた。一昨年、昨年、そして今年と、読み手に満足してもらえる作品を出すことが出来た。その甲斐あって、わずかばかりだが界隈で顔を覚えてもらうことが出来た。その事を、ひそかに自慢に思っていた。
だがもしかしたら、それは逆噴射小説大賞という賞のカラーに過度にアジャストしたが故の結果だったのかもしれない。自身のセンスや嗜好のもとに作品を仕上げたのは事実としても、その枠内で「パルプ」と思しき作風、読者に受けるであろう作風に、知らず知らずのうちに寄せていなかったか。その結果、自分の本当の持ち味を出し切る事がこれまで出来ていなかったのではないか。
友人の指摘は、おれの疑念を見る間に加速させ、肥大化させた。何の心当たりもなければ一笑に付すことも出来ただろうが、そうできない程度には心当たりがあった。
だからこそ、おれは一切の反駁なく押し黙るしかなかった。
おれたちの会話を聞いていた、もう一人の友人が口を開いた。
奥ゆかしい言い方だが無理難題には違いない。設定や構成やフック等々を計算して積み上げていくエンタメ小説と、身辺を面白おかしく語るエッセイとでは、執筆に使う脳の箇所が違う。それだけに、グッドアイデアだとは軽々に言えなかった。
考えておく。
おれの一言を最後に、会話は終了した。
◯それから一週間が経った。
おれは、何も書けずにいた。
◯友人二人の言葉が重くのしかかっていた。あまりにも的を射た指摘と、そしてあまりにも実践の難しい提言だった。言葉の重みは日が経つごとに増していった。海底に沈み大船を留めさせる、巨大な錨を思わせる重量感だった。
言葉のアンカーにがんじがらめにされたまま、おれは大賞開催期間の三分の一を棒に振った。
◯靄のかかった頭で、他の参加者の応募作を読んでいた。
読み進めるほどに思った。おれには書けないと。
◯弱気で自暴自棄になっていただけではない。確かに思い当たるところがあった。
どの応募作も刺激的な要素、あるいは豊かな奇想を以て、胸ぐらを掴まんばかりの勢いで読ませにかかっている。それこそが界隈のメインストリーム、大賞審査委員長の逆噴射聡一郎氏が提唱する「パルプ」の王道だ。
しかし、おれはそれを書けない。いや、書けないと言うと語弊がある。正確には自分の血肉に出来ていない。
死、暴力、謎、不条理、ハードSF、ハイファンタジー、etc。界隈で好まれる要素を前面に押し出した作品、大賞主催者であるダイハードテイルズの嗜好に合わせた作品は書こうと思えば書けるかもしれない。だが、おれはそれらの要素を自分の血肉にしている──作為なく自然に出力できるほど入れ込んできた経験がある──わけではない。本当にそれが好きで、好きだからそれを修めてきた人にはあらゆる面で劣る。最後まで勝ち進めるだけの、そして自分自身が納得できるクオリティに仕上がる見込みは絶無と言える。
◯応募作群を読み進めるほどに、友人たちの指摘が正しかったことが嫌というほど身に沁みた。そしてその分、自分の嗜好やセンスが根本的にこの大賞にマッチしていないと思うようになった。
◯やがて、他作者の応募作すら読めなくなった。
虚ろな顔で職場に行っては仕事をこなし、帰ってきたらスマホでダラダラとネットサーフィンをしながら適当にネット麻雀を打つ。そんな腐りきったリーマンに成り果てた。
いずれ書けるようになるという楽観は持てなかったし、持とうともしていなかった。自分が勝負をあきらめた事を、まるで他人事のように自覚していた。
大賞開催期間の、三分の二が過ぎようとしていた。
◯転機は、脈絡なく訪れた。
ある日、昔読んでいた麻雀マンガ『哲也』の事が気になってネットで検索した。検索を続けるうち、マンガの原典である阿佐田哲也の小説『麻雀放浪記』の一文が目に留まった。
おれは阿佐田哲也を本格的に読んだことがない。短編集を一冊読んだことがあるだけで、特に親しんだ経験はない。
だが目にした文章は、なぜだか妙にすわりが良かった。歓喜や活力が湧いてきたわけではない。心は変わらず虚無のままだ。あがく事を放棄して静かにあきらめに沈んでいる。
その虚無の心に、阿佐田の文章はひどく馴染んだ。見たままを何の修飾もなく描いた文章が、感慨を伴わないまま自分の胸にするりと収まるのを感じた。
◯先程もネット麻雀を引き合いに出したとおり、おれは麻雀が好きだ。上達の見込みもないまま惰性で十数年続けているヘタクソだが、好きである事に違いはない。いつだったか、麻雀をネタにエッセイを書こうとして頓挫した事もある。阿佐田の文章の切れ端にさわるうち、そんな他愛もない事を思い出していた。
その時書こうとした事。
それをパルプで書けないか。
そう思った瞬間、おれは自然とnoteを立ち上げていた。意気込みは微塵もない。心は未だに死んでいる。
だが、期待も欲望も持てない今だからこそ、肩に力を入れず書ける気がする。読者にウケるものを書こうという余裕はない。だがそれだけに、ブッ飛んだ奇想やアイデアをねじ込まなければという強迫観念に囚われることもない。
ただひたすら、自分の血肉になっているもの──十数年麻雀を打つ中で培ってきた価値観、作為なく自然に出力できるもの──だけを衒いなく書けそうな気がする。そんな風に感じていた。
◯同時に、かすかな閃きもあった。『noteのエッセイ屋』を称するおれが、これまで書いてきた『エッセイ』と称する書き物の正体について。
おれにとっての『エッセイ』。それは、実体験をベースに多少の虚構を交えて自分の価値観を語るツールに他ならない。
ならば、虚構と経験の割合を逆転させても『エッセイ』足り得るのではないか。綿密な計算のもとに設計された虚構ではなく、あくまで自分の価値観を語るツール。そういう意識で書けば、この体たらくでも物語を紡げるのではないか。
緻密な虚構は書けない。だが、これまでの経験を活かした書き物なら書ける。例えパルプのコンテストであろうと、自分の『エッセイ』を読み手に楽しんでもらいたい。
そんな事を、考えていた。
◯エッセイで書こうとしていたネタ、つまり本作のテーマは「勝負の無慈悲さ」だった。ツキ(運)というものの理不尽さ、人智の及ばない有様は神の持つそれに似ている。その事を著したかった。
◯以下、少し長い話になる。
麻雀を打っていると、ツイている時といない時というものを実感する。ツイている時は作為や工夫など必要なく、自然体のままでいれば勝てる。ツイていない時はあがいても死ぬ、座しても死ぬ。この辺りは麻雀に限らず、勝負事の経験のある人なら肯いてもらえる話だと思う。
個人的には、そのツキが変わる瞬間について思うところがある。ツキというのは結局確率の偏りだから、それを均すにはゲームの試行を繰り返すしかない。つまり時が経つのを待つしかない。
その上で──あくまでおれの経験上の話、いわゆる「オカルト論」「ギャンブラーの誤謬」に過ぎないが──ツイている奴が悪手を打つと、その後の展開が急変する事が多い。つまり、ツイている奴とツイていない奴の立場が入れ替わる。一瞬でそうなるわけではないが、気づけばそうなっている。その過程に身を置くときは、決まって潮の満ち引きに足をとられるような抗いがたい力を感じる。
◯合理的な麻雀の打ち手なら、何の根拠もないオカルト論だと一笑に付すだろう。実際おれもその通りだと思う。
だが、おれがこれまで打ってきたメンツで「強い」と評されてきた奴らは、皆その事を肌で感じていたように思う。だからこそ、彼らはミスをする事を何よりも恐れていた。
◯ひとたび悪手を打てば自分が食われる側に回る。人の力ではどうしようもない理不尽に蹂躙され続ける。その事態を回避するために緻密に最善手を打ち続け、決して優位を明け渡さない。強者・巧者のそういう有様を見るたび、おれは一つの妄想に囚われていた。
◯おれたちがやっている勝負というのは、もしかしたら「何か」に捧げる供物、一種の神事のようなものではないのか。
「何か」は常にプレイヤーの最善手を欲している。最善手を打ち続けるプレイヤーは「何か」の寵愛を受けて勝ち栄え、悪手を打ったプレイヤーは「何か」の逆鱗に触れて喰い殺される。
言わば、プレイヤーは勝負という神事を司る司祭である。つつがなく神事を全うすることが使命であり、それを果たせなかった者は不適格者として排除される。だからこそプレイヤーは必死に、そして真摯に勝負を全うせねばならない。
我欲に衝き動かされる人間が、己の自覚せぬままに神事の一端を担わされている。「何か」の不興を買ってはならぬ、その一心で厳粛な舞を舞っている。舞わされ続けている。
◯以上が、おれの感じていたことだった。本作の主人公「完」が後半で口にするセリフは、上記の内容を凝縮したものだと言える。
◯こうして書いてみると、つくづくエッセイには不向きな題材だと思う。麻雀なんて知らない人の方が多いし、知っていたとしてもオカルト論として一笑に付される妄想だ。
第一、エッセイとして書くには格好つけが過ぎる。エッセイの語り手は書き手であるおれ自身だ。ハードボイルド小説の主役ならまだしも、ただの小市民であるおれが口にしていい内容じゃない。口にすれば痛々しい厨二病で終わってしまう。
だからこそ、小説の主人公に言わせるには相応しい内容だった。格好つけの過ぎる価値観を語るべく、主人公の完には思い切り格好つけてもらった。おれに代わって口を開いてくれた事を感謝している。
(ちなみに、「金は持ち主の命そのもの」という価値観は以下のエッセイで語っている。折角だしこれも喋ってもらおうと思ってセリフに加えた)
◯以下、執筆の工夫について語る。
◯本作の空気感について、「ハードボイルド」と評される事が多い。
人様にそう呼んでもらえるのは嬉しいが、おれは自作に「ハードボイルド」と銘打った事はない。これからも多分しないだろう。何と言うか、自分でそう名乗るのは憚られる。つまり畏れ多い概念なのだ。それでも強いて言うなら、大袈裟な感情表現は日頃から書かないことにしている(これはあくまで好みの問題だ。文体は個人の人格である以上、好みはあれど優劣はないと思っている)。
noteを始めたばかりの頃、この話に通じる内容を記事作成の覚え書きとしてしたためた事を思い出した。以下に貼る。
元からこういう思想がある上に、今回は上述した阿佐田哲也の文章にインスピレーションを受けていた。ひどく打ち沈んだ状態の時は、阿佐田のように感情を突き放した表現がしっくり来る。
そういう訳で、いつにも増して感情のこもらない、淡々とした語り口になった。ダウナーな状態でも楽に書ける文章を志向すると、おれの場合はこういうものになるらしい。
◯一人称と三人称の選択について、今回は一人称を選んだ。語り部を私=雀荘の主人とする事で、少しでもエッセイに近づけたいという意図があった。
いざ書いてみると中々良かった。語り部を「私」としたことで作品世界に没入できる。主人公である完の観察者として語り部を据え置いただけに、完の一挙手一投足に着目して話をせざるを得ない。臨場感を褒められることの多い作品だが、原因の一端はこの辺にあるのかもしれない。
◯臨場感について話を続ける。
方々で本作の臨場感やイメージ喚起力をお褒め頂いたが、喜びよりも驚きや不可解な気持ちの方が強かった。自分ではスカスカな描写だと思っていたからだ。実際、ことさら緻密な描写をしよう、巧い文章を書こうという意識は微塵もなかった。
その代わり、自分が100%想像し得る事柄だけを書いた。少しでも想像の範疇を外れたもの、自分の手に余るものは書かない。また書く余裕もない。
足し算でなく引き算と言えば良いのだろうか。物語が紡げそうにないからこそ、自分の手に馴染んだもの、作為なく自然に出力できるものだけを書いた結果こうなった。「架空の物語」でなく「エッセイ」を書く、自分の経験した事柄を書くという意識で書いたが故の結果だと思う(勿論、実際にはここまでキツい鉄火場の経験はないが)。
◯ヘッダ画像はあえて付けなかった。
絵心もなければ画像生成スキルもないのが一番の理由だが、なまじ画像を付けることでイメージを定義づけたくない、作品の持つ得体の知れない雰囲気を矮小化させたくないという思いがあった。この選択にも満足している。
◯最後に、タイトルと〆のセリフについて述べる。
『セイント』という素っ気ないタイトルは、実際考えこむ事なく付けた。勝負それ自体が神聖なものである事、また神事に仕える司祭のような完の有様を示したかった。
しかし、結局やっている事は博奕だ。あくまでおれの価値観だが、博奕という世界には生産性、つまりギブアンドテイクが存在しない。そこには奪うか奪われるかを繰り返すひとでなししか存在しない。聖人然として振る舞おうと、そこに強者として君臨する完は飛び切りのひとでなしに違いない。
そのひとでなし具合を端的に描写したい。そのためには、自身の享けた恩と情と愛を打ち棄てた有様を語らせる事が効果的に思える。
そのように考え、あのセリフに至った。こうして書くと『セイント』というタイトルが結構な皮肉に思えてくる。
◯結局、2時間半で書き上げた。と言うより軽率に書き散らした。ふだんのエッセイでもここまで野放図に書いた事はない。
しかしそれだけに、友人達が言う「自分の素」を出し切れたと思えた。小説の体を借りて自分の価値観を思うさま語る、エッセイ屋のおれらしいパルプが書けたと思えた。
おそらく読者ウケは悪いだろう。賞レースにも向いていない。
だが、人の目を気にせず自分らしさを全う出来たと言い切れる。パルプ小説でありながらも、自分らしい「エッセイ」が書けた実感がある。
その実感を掴めた事が、何よりうれしかった。
◯おれは自作を見る目が無い。
その事を、お褒めの言葉を頂戴するたび痛感した。X(Twitter)感想文とピックアップ記事及びマガジン、大量にあるが全部載せる(※一作目のライナーノーツにも追加させて頂きました)。
◯とんでもない称賛の嵐だ。こうして並べるだけで顎が外れそうになる。お褒め頂いた皆様、誠にありがとうございます。
◯とは言え、読者の下馬評と賞レースの審査は別だ。本作が賞のカラーを度外視している事は最初から自覚している。謙遜でも何でもなく、おれは本作が一次か二次で落選することを確信していた。
やはり、おれに自作を見る目は無かった。
結果として、最終選考ステージに到達した。全応募作300本中わずか21本が占める入選作に選ばれた形だ。
おれは一昨年に参戦して以来、毎年の全応募作を読んでいる。勿論今年も全作読んだ。だからこそ言うが、今年は本当にハイレベルだった。それこそ応募作のほぼ全てが面白く、そしてハイクオリティな代物だった。こんな面々に囲まれて勝てるはずがないと思っていた。それだけに、こうして書いていても未だに信じ難いところがある。
だが事実は事実だ。選考結果はいつでも運に大きく左右されるものだが、それでもダイハードテイルズの皆様が、そして逆噴射聡一郎先生がおれの作品を評価してくれた事には違いない。
おれにとってはパルプでもありエッセイでもある『セイント』を、逆噴射聡一郎先生が面白く読んでくれた。パルプスリンガーでありエッセイ屋でもあるおれにとっては完全勝利だ。これ以上ない勲章を掴むことが出来た。
ダイハードテイルズの皆様、また参戦者、読者の皆様方。心から御礼申し上げます。誠に、誠にありがとうございました。
◯最後に、友人二人に礼を述べて長過ぎるこの記事の〆とする。
君らの諫言は本当に耳が痛かった。そして提言は本当に難題だった。どう向き合えば良いか分からず途方に暮れる毎日だった。
そのおかげで、今までで一番おれらしいパルプを書くことが出来た。自他ともに良いと思える作品を書くことが出来た。
面白いパルプを志向し続けた結果、これまで書いてきたエッセイの意識で書くに至った。とんでもない回り道をした気分だ。だがSBR(スティール・ボール・ラン)のジャイロも言っていた通り、遠回りこそが最短ルートだったのだと思う。
どうあれ、おれの物書きとしてのポテンシャルを信じてくれてありがとう。本当にありがとう。
また、何か書いたら読んでやってくれ。
よろしくお願いします。