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年の瀬に事始め
「事始め」とは
とりかかること。着手すること。
(コトバンクさんより)
「事始め」は正月の書初めなどのように年始行事と思っていたが、Google先生いわく年末の事始めやら年始の事始めやら、様々な定義や意味があるらしい。
はじめまして。
しのまゆこです。
42歳を迎え物書きになりたいと思い立ったはいいが、なんせ語彙力が乏しく魂の会話で人生やり過ごして来たため、冒頭よりお気づきかと思うが早速Google先生を開きコトバンクさんに頼っている。そして、事を始めるにあたりその意味まで調べるという「変に真面目」なところがある。
そもそも物書きへの思いは去年の年末には頭にあったことだ。
16年務めた仕事を辞め、家族で東京から長崎へ移住、生活が落ち着いたところで新しいことを始めようと「2024年の年始には!」と決意した思いだった。
気づいたら年末ではないか。
冬は寒い、春は忙しい、夏は暑い、今年の秋ってあったっけ?などと過ごしていたら、また冬が来てしまった。
実りの秋に「書く書くの実」でも食べていれば今頃「書く人間」になって物書き王を目指し大海原に乗り出していたのではないだろうか。
42歳、腰が重すぎる。加えて変に真面目なので言葉の間違いや表現の失敗を恐れ、石橋も叩かず橋の前で立膝つき「ん?ここヒビ入ってないか?というかコレ本当に石でできてんの?」などとブツブツ呟いている1年だった。
郷の親も年老いて、気の置けない友人らは遠方、夫は船の上(外交船員)、主婦になり社会とも疎遠になった今、「はやく橋渡れよ!!」とイライラして背中を押してくれる人も周りに居なくなってしまった。側にいるのは「鼻くそ鼻くそ」と毎日ゲラゲラ笑う5歳の息子のみだ。
「やれやれ。自分の背中は自分じゃ押せませんよぉ」と頭の中に一休さんまで浮かんでくる始末なのでタチがわるい。とんちも真面目もこの場合はもはや立派な言い訳であることは、どんなにおとぼけ君バナナ&チョコ味な私でもいいかげん気づいている。「年始から始めようと」などとほざいていてはまた翌年をボケっと過ごしてしまうであろう。
と言いつつ撮り溜めたドラマばかり観ていたら外交船員の夫が長期の乗船から帰ってくる日がやってきた。この冬がチャンスだ。背中を押してもらわねば!
私は意を決してnoteにアカウントを作り、帰宅した夫に宣言した。
「物書きに、私はなる!!」
夫はロジャーに扮し、
「書け!!!この世の全てをnoteに置いて来た!!!」
などとは言わず、
趣味の筋トレをしながら一言、
「いいんじゃない?」
といつものように快諾肯定してくれた。
久しぶりに帰宅した者のテンションとしては当然である。
「うん、じゃあやってみようかな。」
と甘ったれた返事をしたきり、私はnoteの好きな作家さんの作品を読んでニヤニヤするだけでさらに1ヶ月過ごしてしまった。
もうひと推し、もうひと推し欲しい。
「押すなよ!?押すなよ!?」までやって欲しいとは言わない。夫に寺門ジモンと肥後さん二役をやって欲しいとまでは欲張れない。
どうすれば熱湯風呂にいや、物書き王を目指して大海原に漕ぎ出せるのか。
12月半ば、冬晴れの日だった。夫がファンである手塚治虫先生の「ブラックジャック展」を見に、我々は長崎県美術館に足を運んだ。
過去最大規模といわれる展覧会で、私は何百点にも及ぶ生原稿の展示と手塚治虫先生のエネルギーに圧倒されてしまい、最後の部屋ではクラクラと椅子にヘタれ込んで夫を待っていた。
物を作り出すパワー、アイデアを表現するスキル、当然ながら手塚先生はとんでもない偉人であった。
美術館の外に出ると空は青く、キリッと冷えた空気が興奮した頭を冷やしてくれた。美術館を後にした我々は出島ワーフをぶらぶらし、カフェでランチをしながら港の美しい景色を眺めていた。
「私は物書きになってもいいのかな。ちゃんと書けるだろうか。」
手塚治虫作品を見た後に自信を失うなど、誰を相手にしてるんだと何ともおこがましい行為だが、ポロリと出た不安に夫は、
「誰しも最初は不安だし失敗するよ。やりたいことが有るのがそもそも素敵な事だ。」
と言った。
手塚先生のパワー溢れる作品からは不安や失敗などは感じられずにただただ圧倒されたので「よし!私も手塚先生みたいに頑張るぞ!」などという気持ちにはなり得えなかった。
しかし、自由を感じた。パワーにも圧倒されたがその自由に私はクラクラしたのかもしれない。
作品の中で先生は、医療はもちろん社会への問題提起から生死感、民族や宗教、愛や恋や性や、地球や宇宙や自然や生き物への思いまで、医学の知識をもとに作品として出力していた。
その表現は力強く自由だった。
中にはギャグもあるし、「どうした?!」と突っ込みたくなるコマもあり、ぴょんぴょんとあらゆる垣根を飛び越える発想は、多様な角度からとことん楽しませてくれた。その表現の自由はとても尊く素晴らしかった。
私は16年仕事で東京で過ごし、歳を重ねるにつれて仕事でも家庭でも型にハマりながらしか生きれなくなっていた気がする。東京以前も型にハマりがちな生き方だったが、ことさらパワーがひしめき合う東京では、仕事や家事育児で疲弊していた私のような人間にとってそのほうが楽だった。
長崎へ移住してからしばらくはソワソワしていた。仕事を辞め自由になったことが怖かったのかもしれない。何者でもない感覚と自分の表現が上手く出来ずに溺れている感覚、もちろん母親であり家事育児は毎日あるのだが、ガラリと変わった環境に身を置けずにいた。
半年ほど経ち、私は長崎ののんびりした雰囲気と身近にある自然、おおらかな義両親や周りの人々と触れ合い、ゆったりとした時間の流れに慣れていった。前職の事も少しずつ頭から薄れて、時間をうまく使えるようになってきた。
私は長崎にきて自由になった。
だから物書きになりたいと思うようになったのかもしれない。
長崎港の海面は冬の晴れ間にキラキラ輝き、浮かぶ白い船らの向こう側には稲佐山が静かに港を見下ろしている。「あんたも自由にやらんね」と。
思えば今食べている、このピザパスタのオシャカフェのAランチが「塩だれ鶏炒め定食」なのもかなり自由だ。
鶏の旨みを噛み締めながら物思いにふけっていると、
「まゆこさんのSNSの文章、なかなか面白かったよ。」
とモグモグと幸せそうな顔でピザを食う夫が言った。そして「おー、これが食べたかったんだよー」とビスマルクピザを一切れ持ち上げて半熟卵を口に落として、それは幸せそうだった。
何でもいいから書いてみよう。
その日、私の尻に火はついた。
さぁ!大海賊時代いや、大航海時代の幕開けだ!この長崎の港からnoteという大海原へ飛び出すのだ!
こうして記念すべきnote第1作目の大公開へと至ったのだが、ただの投稿をここまでくだらない内容で大袈裟に書いたからには、大航海から大後悔にならぬよう是非2025年は精進したい。
自由に。