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来訪と、愛しき約束
福永せんせが少し早めに湯浴みすると言うので、リビングでまったりしていると、インターホンの音がして。
「はい、どちら様で……あっ!」
「や!久し振りだね」
ドアを小さめに開けると、中村さんがニコニコした顔で立っているのが見えた。
知人なのと、悪さをする人じゃないのは福永せんせの話で知っているので、少しドアの隙間を広げる。
「お届け物と、あと福永に原稿のお礼をしたくってね。…で、福永は?」
「あ、今お風呂なんです。ちょっとお昼に買い物出て、それで汗かいちゃったからって」
「なるほどなるほど。まあ追分も涼しいとはいえ夏だからねぇ。まあ、追分の外に比べたら十分涼しいんだけど」
じゃあお届け物は君に預けておこうかな。
そう言うと淡い緑のシャツの胸ポケットに手をやり、「はい」と紙切れを2枚。
「ありがとうございます!えっと……、あ、今年の映画会の!」
「そうそう!丁度さっき地区の組合の人に会ってね。今配って回ってるって言ってたから、じゃあ僕のと福永と、あと君とって貰ってきたの」
今年は…「オペラ座の怪人」か。
聞けば、組合の方が映画館でリマスター版を観てストーリーに感動したからと、他の組合員さんを説得してこれにした…らしい。
「へぇぇ…なんか凄いですね。説得してこれに……」
昨年の「ナイト・ミュージアム」から、また激しい路線変更だ。
「そう、僕も驚いたよ。でもなかなか面白いらしいからね。何でもガストン・ルルーの原作に加えたアレンジが……あ、福永!」
ふと私の後ろに飛んだ視線を追いかければ、グレーの浴衣に黒の帯の福永せんせ。
と、その足音が段々と早く、大きくなって。
洗いたての足が、私と中村さんの間に挟まる。
壁のように、ずいっと割り込むグレーの浴衣。
「もう、来るならあと少し遅くてよかったのに」
言葉に釣り合わない、ちょっぴりムスッとした声。
表情は見えないけど、多分声の感じと似たものだろう。
けど、そんな福永せんせに対し、中村さんはニコニコして続ける。
「ああ、ごめんね!君がまさかお風呂だなんて思わなくてさ。映画会のチケット、なくしちゃうと大変だから」
とはいえ、次からはもう少し遅めに来ようかな。いやはや申し訳ないねと軽やかに続ける。
ムスッとモードの福永せんせを前にしてもこの笑顔、この動じなさ。さすがは盟友…なんて感心しているうちに、
「じゃ、2人の時間を邪魔したくないし、僕はもう帰ろっかな。それじゃあね!あとはごゆっくり〜」
なんて言い残して、サクッと帰ってしまった。
風のようだったなぁ…なんて後ろ姿を見送る。
と、がちゃりと音を立ててドアが閉まる。
鍵を閉める福永せんせの手も見える。
と、刹那。視界いっぱいに広がるグレーの絣模様。
抱きしめられてると理解するのに、時間はかからなかった。
「………もう、何で置いていくのさ」
寂し気な声が降ってくる。
ぎゅ、と福永せんせの腕に力が入る。
きつく抱きしめられた胴体と上腕が少し痛い。
「上がったらいないし。呼んでも返事がないし。…で、玄関から声がして、見たら中村と話してるし」
「ごめんなさい…お風呂上がり、邪魔するのもアレかと思って……」
「別に気にしないよ。行けないときは言うし」
それに、体なら何度も見ているだろう?と続けられる。
寂しげに泣くようなテノールに胸が痛むと同時に、2人だけの「ひときわ甘い時間」も思い出して、胸が一瞬とくんと跳ねる。
「何も言わずに置いていかれるのは、少し苦しいからさ。僕に声をかけて行くの、忘れないで。……覚えておいてくれるかい?」
どこか寂しげな、幼い「武彦くん」の思いも重ねたような声。
自由で寂しがりで、愛おしい、芸術家の声。
「分かりました……せんせ、心配かけてごめんなさい」
辛うじて動く手で、福永せんせの腰をきゅ、と抱きしめる。
彼の腕の力と比べれば小さな力だけど、それでもきちんと思いは伝わったらしい。
「うん、分かってくれたならいいよ。……聞いてくれてありがとうね」
少し緩まった腕。
ちらと見れば、安心したような機嫌の治ったらしい表情。
ほっとすると同時に、少しバランスを崩して、彼の腕の中に凭れかかってしまう。
「おわっ…!大丈夫かい?」
「大丈夫です!その、ぎゅぅってされてたから、力抜けちゃってつい……」
「もう…可愛らしいなぁ」
そう言うと、頬に手を寄せられる。
そのまま、少し長い、愛おしげなキス。
目を閉じると、角度を変えてまた甘い唇が触れる。
そうして何度も甘く唇を重ねる。何度も、何度も。
鍵を閉めているとはいえ、玄関先だなんて、忘れてしまうほどに。
「本当に、ずっと傍に置いておきたいよ。僕の手の届くところに、声が聞こえるところにいて欲しい。……"Perché non fugga più."って、こういう思いが詰まった言葉なんだろうね」
愛おしげに、甘く笑う福永せんせ。
さっきまでの寂しさが、晴れて消えかかった霧のように残る中の、甘い甘い言葉。
途中、一瞬挟まった異国の言葉も、きっとそんな感情を凝縮したものなんだろう。
「……ずっと、傍にいますよ。せんせ。寧ろ『居させてください』って願いたいほどなので、私」
霧の中に朝日を差すように、確かな言葉を返せば
「その願いごとは、ずっと叶え続けてあげるからね。……約束だよ、これからもずっと」
霧の中に咲く露草のようなテノールが響き、また甘く唇が重なった。