福永せんせは、洒落た人だと思う。 服も、眼鏡も、持ち物も。 彼が選ぶものはすべて色や形が美しい。 たとえ既製品でも古着でも、彼が選んで身につけると、まるで彼のために誂えたかのようにしっくり来るのだ。 センスがある、なんて言うと月並みだけど、そういうことなんだと思う。天性の審美眼、というか。 「お、今日はそれなんですね」 「うん、だって君と久々に観劇に出かけるんだから」 彼が身にまとっているのは紫のセットアップ。 藤の花のように柔らかな深みのある紫色が、柔らかなアイボリ
洗濯機が回る音と、微かな風の音。 視線をあげれば、風に踊る夏色のシャツたち。 「おーい!さっき入れた分終わったよ!」 福永せんせのテノールが、大きめに響く。 「来ましたね、第2陣!…よし、やりますか!」 私と福永せんせがしているのは、夏物の洗濯。 衣替えでしまい込む前に全部きれいにしようと、朝から洗濯機をフル稼働中だ。 洗面所に足を運ぶと、洗濯カゴに出されたシャツと目が合う。 この夏よく来たフィッシングシャツにチロルシャツ、福永せんせが気に入ってきていた淡い黄色のシャ
追分から戻り、月も変わったある日曜日。 「もう秋だねぇ」 「ね、風も涼しいですし。お散歩日和って感じがします」 福永せんせと私は、ゆっくりと近所をお散歩していた。 「こうしていると、季節が変わっているのを感じるねぇ。『目にはさやかに見えねども』…ってこういうことかなぁ」 「『風の音にぞ』…確かにですねぇ。……あ!」 ふと視線を向けた先には、雑貨屋さん。 黄色がかったオレンジ色が、開いたドアからちらりと見える。 「あの、福永せんせ。ちょっと寄り道してもよいですか?」
戸締り、よし。 ガスとか水道、よし。 荷物の置き忘れ、なし。 「おーい、大丈夫そうかい?」 「はい!全部大丈夫です!」 玄関先から響くテノールに、少し大きめな声で答える。 やっと秋の足音がしてきた今日。 福永せんせと私は、追分を後にする。 思えば、今年も割と長く滞在したなぁと思う。 7月の半ばから9月の下旬までだから…2ヶ月と少し、というところか。 毎年、夏が長くなりすぎてるから、ついつい長居してしまうんだよなぁ。 2階の戸締りを一通り確認して、たんたんと階段を降り
夏は、早くて速いものだ。 だからこそ、「残す」ことが大切だと思う。 「……よし、できた!」 「お、早いねぇ。僕はあと少しかかりそう」 追分での滞在も残り少しになった日曜日。 私と福永せんせは、追分での思い出を閉じ込めた手作りのアルバムを作っていた。 「え、ちょこっと見てもいいですか?」 「まだ駄目。君には完成品を見てほしいからね」 2人でスクラップブックを捲り、写真を貼ったり絵を描いたり。 思い出にまつわる文章を入れたり。 何を選んで、どう切り取るか。考えながらページ
「おぉぉ………!」 オーブンの前、私と福永せんせの歓声が重なる。 オーブンから登場したのは、大きな金型に入ったプリン。 絵本に出てくるそれのような、通常のものよりも何倍も大きい姿が、どこかお茶目に見える。 「わあ…すごいねぇ。これ、僕たちで作ったんだ……」 「ねぇ…まだ途中ですけど、改めて見ると凄いですね……」 改めて言葉にすると、不思議な感じがする。 こんなに大きな、空想の中のようなお菓子が、今ここにある。 「あ、福永せんせ。まだ熱いですからね。触らんごとです」 「
夕刻。お盆前最後のメールを送信し、思い切り伸びをする。 「んぎぎぃ………っ、とぉ!」 脱力してぐおんっと降ろす腕。 と、その背中で鳴るシャッター音。 「ん?……って、あ!せんせ!」 「ふふ、バレちゃったか。今日もお疲れ様だったね」 カシャッともう一度シャッターを切り、にこっと笑う彼。 まるでいたずらっ子のような笑顔が可愛らしい。 「もう、撮るなら撮るって言ってくださいよ」 「ごめんね。でも君の伸び、見ていてすごく気持ちいいからさ」 悪びれる様子もない笑顔が子どもみ
福永せんせが少し早めに湯浴みすると言うので、リビングでまったりしていると、インターホンの音がして。 「はい、どちら様で……あっ!」 「や!久し振りだね」 ドアを小さめに開けると、中村さんがニコニコした顔で立っているのが見えた。 知人なのと、悪さをする人じゃないのは福永せんせの話で知っているので、少しドアの隙間を広げる。 「お届け物と、あと福永に原稿のお礼をしたくってね。…で、福永は?」 「あ、今お風呂なんです。ちょっとお昼に買い物出て、それで汗かいちゃったからって」
「ねえねえ」 いつものように夕食の準備をしていると、福永せんせがにこにことした笑顔で手招きしてきた。 「ん?どうしました?」 いいからおいで、と竜胆のような優しい笑顔。 つられて彼の後を追い、薄暗い窓辺に近づけば 「………っ、わあ!」 「ね?綺麗だろう?」 そこには、ちらほらと光の帯。 あちらこちらにふわふわと瞬く命。 「蛍…こんな近くに!」 もともと、玩草亭周辺の水質がいいことは知っていた。 水がきらきら澄み渡っていて、毎年来る度に水路を流れる水を眺めてしまう
追分の朝は涼しい。 今朝もふわりとやわく過ごしやすい空気が、寝室に満ちている。 これで夏だなんて、嘘みたいだ。 寝起きの体を思い切り伸ばし、肺に思い切り空気を取り込む。 「んぎぎ………っ、と」 ふぅっと脱力した体で、枕元のスマホを見やる。 時刻は6時30分。いつも通りの起床時間。 ついでに気温も見ると、今は20度らしい。そりゃあ寝苦しくもなく、過ごしやすいわけだ。 と、隣で布団がもそもそと動く気配。 そして、ややあって 「んん……」 言葉未満の、やわいテノール。
今日も今日とて、仕事終わり。 ノートパソコンをぱたりと閉じ、2階の仕事部屋を出る。 と、階下から何かメロディーが聞こえてきた。 初めて耳にする、豊かに美しく響くメロディー。 合間合間に微かに聞こえる、甘くやわいテノールの声。 「……これは、何かいいことがあったな」 降りてみると福永せんせの機嫌がすこぶるいい。 レコードプレイヤーの音に合わせて、メロディーを口ずさみながら、髪をわしわしと拭いている。 「……あ、お疲れ様!」 どうやら、階段を降りる音で私に気付いたらしい
「………いよっし、終わったぁぁぁ!」 思い切り声をあげて、ぺしゃっと畳に大の字で倒れる。 と、階段をたんたんっと登る音。 「ふふ、終わったんだ?下まで声が聞こえてたよ」 顔をのぞかせるのは福永せんせ。 どうやら先に湯を浴びてたらしく、さっぱりした顔だ。 淡い紺の浴衣に、生成の帯がやわく眩しい。 微笑ましい、という言葉の通りの表情に、つい顔が赤らむ。 「あ、すみません…こっち来て初仕事やったんでつい……」 「いいんだよ。初仕事、お疲れ様だったね」 ぽんぽんと頭、もとい
「ただいま帰りました〜」 「うん、お帰りなさい」 いつも通りの、帰宅の挨拶。 だけど、今日はちょっぴり違う。 「……福永せんせ、」 「……うん、」 「お仕事、全部やり切りました!」 「うん、よろしい!」 ぴしっ!と宣言すると、福永せんせもにこっと笑う。 「よかったあ、ちゃんと全部終わったんだね」 「はい!もう…早めに出勤してやったかいがありました!」 「よかったよかった、じゃあこれで安心して出られるね」 「はい!」 私が、早めに出勤してオフィスでの仕事を片してき
「お待たせいたしました、『花咲く苺のクリームソーダ』です」 丸いガラス皿の上に、ことっと音を立ててクリームソーダが着地する。 曙の空で色をつけたようなピンク色のソーダの上に、淡い黄色を帯びたバニラアイス。 さらにその上には名前の通り、真っ赤な苺で作られた赤いバラが一輪咲いている。 「ありがとうございます。……さ、食べて」 柔らかく光る三日月のような笑顔と声で、福永せんせが促す。 「あ、えと………」 「…あれ、苺は苦手じゃなかっただろう?」 「あ、はい。や、でもそう
カタン、カタン。タタン、タタン… 夕方だなんて分からないような、淡い青の空。 私と福永せんせを乗せた電車が、その空の下を緩やかに駆けていく。 傾斜のあれこれなのか、時折小さく跳ねる車輌が 子供の慣れないスキップみたいで、不思議と心地いい。 「……ふふ。せんせ、寝ちゃいましたね」 神社で茅の輪くぐり、もとい「名越の大祓」をした帰り。 梅雨時の暑さと、少し長く歩いたのがあったのか 福永せんせはすっかり夢の中だ。 私に寄りかかる体は、規則正しくやわらかな寝息を立てている。
「いよいよ、だね」 「ええ、いよいよですね」 福永せんせと2人、ノートに書いたチェックリスト。 夏服、下着、靴下、眼鏡…といった日常のものから、先日お迎えした大きなプリン型にフィルムカメラ、デジイチ、スケッチブックに水彩絵の具まで。 我ながら、なかなか様々だなぁと、見ながら思わず笑みが零れる。 「あ、笑ってる」 ふに、と福永せんせの指が私の頬を突く。 顔を見れば、玉あじさいの花のような優しい笑顔。 「いやぁ…毎年、やりたいことの分だけ荷物が増えるなぁって」 「いいこと