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喜びはオペラのように

今日も今日とて、仕事終わり。
ノートパソコンをぱたりと閉じ、2階の仕事部屋を出る。

と、階下から何かメロディーが聞こえてきた。
初めて耳にする、豊かに美しく響くメロディー。
合間合間に微かに聞こえる、甘くやわいテノールの声。

「……これは、何かいいことがあったな」

降りてみると福永せんせの機嫌がすこぶるいい。
レコードプレイヤーの音に合わせて、メロディーを口ずさみながら、髪をわしわしと拭いている。

「……あ、お疲れ様!」

どうやら、階段を降りる音で私に気付いたらしい。
にぱっとした顔に、思わず頬が緩む。

「ありがとうございます。福永せんせ、何だかご機嫌ですね」
「うん、それはもう!中村に頼まれてた原稿が、今日無事に終わったからさ」

なるほど、それでか。
そういえば、何人かで小さな雑誌を作ることになったって、追分に来る少し前に話してたっけ。
中村さんの同居人さん…もとい私の知人が、確か共同で発起人になったとか何だとか話してたなぁ。

「でも、そんなに分かりやすかったかい?嬉しそうって」
「何となく、そんな感じがしたんですよ。纏う空気が柔らかい感じでしたから」

……本当は、顔にも声にも足取りにもバッチリ出ているから分かるだけだけど。
それでも、纏う空気が柔らかいのは本当なわけで。

「そう?君はよく見て想像できるねぇ。流石、僕が愛する人だ」

頭を撫でられ、ふわりと額にキスが落ちる。
甘く柔らかい声と体温に、思わず頬が熱くなる。
と、また耳にやわく入り込むレコードの甘美な歌声。

「そういえば…さっきから流れてるこれ、何て曲ですか?聞いたことないなぁって思って」
「これかい?『蝶々夫人』ってオペラの曲だよ。ちょうど今流れてるのは主人公とその夫の愛を表した二重唱なんだ」

「え、これがそうなんですか!」

「蝶々夫人」、中学生のときの思い出の曲だ。

読んでいた小説がきっかけで、中学生の頃にオペラにハマって、それで最初に調べたのが「蝶々夫人」だった。
確か、歌詞の対訳も読んだなあ。

当時入ってたブラスバンド部でも演奏したくて、部員を説得しようとしてたんだっけ。
結局、「オペラとか分からないから」「難しい曲だから」と多数決に負けて諦めたけど、よその学校が演奏してるのを聴いて、美しいなぁと心が震えたのを覚えている。

「そうか、これが……。やはり本家も、美しい音ですねぇ」
「あ、そうか。君は確か、楽団でこれをやりたかったって……」
「ええ、結局叶いませんでしたけど。……でもね、」

彼とこの甘く美しい音に、今溺れている。
2人だけで、この音に浸っている。
追分の地で、美しいレコードの音で。

「もう、悔しさも寂しさも『意志を持って忘れ』てますから。それに、こうして福永せんせと聴けるだけで、今は幸せなんです」

「……そっか。なら、よかったよ。その頃の悲しい気持ちを思い出してたとしたら、申し訳なかったから」

よかった、と柔らかな声とともに、抱きしめられる。
骨ばった大きな手のひらを背に感じ、甘い幸福が胸に広がる。

同時に、曲もクライマックスへ向かって広がっていく。
柔らかに美しく、強く、華やかに。

「……何だか『蝶々夫人』のいち場面みたいですね、今」
「僕もそう思った。……何だか、照れくさいね」

この曲が終わったら、一度止めようか。
そういう福永せんせの声は、ちょっとだけ面映ゆそうで。

ですな、と頷きながら、このオペラのような一瞬を暖かに味わおうと、彼の腰に添えた手に、ほんの少し力を込めた。

愛を歌う旋律が、豊かにきらめき、私たちを包む。

- Dolce notte!Quante stelle!
Non le vidi mai sì belle!
Trema, brilla ogni favilla …
… col baglior d’una pupilla!

(甘い夜、数多の星!こんなに美しいのは初めてよ。全ての星が、瞳の輝きのようにきらきらと煌めいているの)

-vien, Ah! vien! sei mia!

(おいで、さあおいで!君は僕のものだ!)

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