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永遠のかくれんぼ〜見つけないで、僕のことを〜

ゆぴさんの『書く習慣』を読了した。

書くという行為、言葉と自分について語ろうとするには、あまりにエネルギーが足りない。だから、10分程度で書ける内容で……と、読んで感じたことを綴りたい。

わたしは、私自身の文章を書くのがこわかった。いや、こわい。

書く習慣があるかないかといえば、あると思う。ただし、「私」の部分を除く内容のものであれば。では、そこに宿る心を問われたらどうか? あなたの本心が見える文章を見せて、そう言われれば、たちどころに凍りついてしまう。文字通りフリーズする。ペンを握る手も、タイプする指も動かなくなる。

自分でも長らく理由がわからなくて、最近(ここ1〜2年か)ようやく理由がわかった。わたしは解離することで生き延びてきた人間だ。つまり、心を殺すこと、感情を捨てること、見て見ぬふりをして、本心をひたすらに隠してきた。気づいたら、心の在りかがわからなくなっていた。

小論文やSEO文を書くのはラクだった。問われていることを盛り込めばよいから。相手の意図を汲んだり、想像したりすることは得意だったから。解離する人間は、客観化が巧みになる。その副次的な成果だったのだろう。

だけど一方で、感想文を書くことは? こわかった。真っ白な地に、足がすくんだ。心が、拒否反応を起こした。自分が何に感動して、どんな気持ちで、「私自身」の生身の感情を掘り起こすことは、恐怖だった。

そうして本音を隠し、背をむけ、時に欺き、そんなことをしていたら、すっかり個人的なことを書けない自分になっていた。

こういうことを自覚して向き合うのは、つらい。つらいから、書かない。書けないから、にぶってゆく心。

ゆぴさんの書籍を手に取ったのは、そんな状況にあらがいたかったから。

まだ、まだまだこわい。実際これを書きながら手が冷えて動きづらくなってるし、呼吸だって浅い。だけど、なんとか変わっていきたい気持ちがある。

消耗したのか、疲れてしまって、うまいことまとめられないけれど。

こう思わせて、パソコンに向かわせてくれたゆぴさんの一冊に、感謝を。

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みお
あなた→わたし→誰か→ほかの誰か