キケロ「老年について」#17 (閑話休題:キケロがこの書物を執筆した状況)

 キケロの略歴を出版元がまとめてくれています。抜き書きしますと…
 古代ローマの政治家・哲学者・文筆家。ローマ帝国の南に位置する街アルピーノで騎士階級の家に生まれる。シチリア属州判事時代に政治の腐敗を雄弁かつ鋭く指摘、その後、数々の官職を経験し、紀元前63年に執政官(コンスル)に選ばれる。カエサルの後継者マルクス・アントニウスと反目したことで、アントニウス側の手によって命を落とす。ギリシア哲学を学び、ヘロドトスを「歴史の父」としてローマに紹介したことでも知られる。存命中はその卓越した文才を生かし、「国家論」をはじめ、政治や倫理、宗教、友情など幅広いテーマで著作を記した…とのことです。
 キケロが執政官に就任し、ローマ政界の頂点に立ったのは43歳のとき。共和政の復興に力を尽くし、雄弁家かつ政治家として名を馳せていたものの、時代の流れには逆らえず、その後の人生は苦悩に満ちたものだったようです。
 50代後半のとき、カエサルがルビコン川を渡って共和政ローマに内乱を引き起こしました。ローマの中心地にあったキケロの屋敷は没収され、キケロはカエサルを支持することができず、この新しい独裁者と対立し、心ならずも恩赦を受け、所有していた田舎の地に引きこもりました。
 年齢は60歳を越え、30年連れ添った妻と離婚し、ほどなく再婚した数回り年下の女性ともすぐに別れ、彼は孤独に生きていました。さらに追い打ちをかけるように、紀元前45年の初めには最愛の娘を亡くし、まさに絶望の淵へと追いやられました。彼は、ローマから遠く離れ、世の中のために何の役にも立たない自分の思考に浸り続ける1人の老人でした。
 キケロが「老年について」を書いたのはまさにこのような時期でした。逆境の中で、彼は酒に溺れることも、友人の政治家のように自殺を図ることもなく、執筆に身を投じたのです。
 彼は青年の頃から熱烈なギリシャ哲学の徒でした。自分自身がプラトンやアリストテレスなど偉大な哲学者たちの著作から学んだ教えを、ローマの同胞に説くこと、それが彼の願いとなりました。
 早朝から深夜まで机に向かい、驚くほど短期間に、政治、倫理、教育、宗教、友情、義務といったテーマで多数の書物を残しました。
 現代もそうですが、古代においても人生とは儚いものだったのでしょう。カエサルが暗殺される紀元前44年3月、キケロは老境をテーマにした短い論文の執筆を始め、老いとは何かを語り、年を重ねることを楽しむための教訓、人生そのものへの向き合い方などを説きました。「老年について(De Senectute)」と題されたこの作品は、以来2000年以上もの間、心ある人に読み継がれることとなったのです。
 その後についても書いておきましょう。すさまじい量の執筆と合わせて、彼は時の権力者マルクス・アントニウスへの命知らずのような激しい弾劾を行いました。キケロは、書きたいことを書き終え、最愛の娘と再会するために、自ら望んであの世に行きたがったのかもしれません。
 アントニウスはそんな彼のもとへ刺客を放ちました。暗殺者たちに殺される直前、彼は「私の首を刎ねるのなら、正しい作法によってやりたまえ」と告げたそうです。いかにも、徳と秩序と伝統とそして神の摂理を重んじる彼らしい最期だったと言えるのではないでしょうか。