暇つぶしのために生きること
大学生のころ、教授がこんなことを言っていた。
「好き勝手にすることと、何かを我慢することは共存している。そして、何を好き勝手にし、何を我慢するかが定まること。私のそれが、学生時代でした。」
生きていると、どうでもいいと思うことがよくある。
と言うより、生きることがどうでもいいと思っているのかもしれない。
約束に待たされることや当日のドタキャン。愚痴を吐く上司の相手や派閥間の闘争。お昼が美味しくなかったことや、お釣りが100円少なかったこと。日常に起こる様々なことは、だいたいは気にならないし、特に不満もない。
なぜなんとも思わないのだろう。
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ずっとこの調子できた私は、他者への配慮が欠けている。自分自身が人にされて気にならないことを、それゆえ相手にしてしまうことがある。頻繁にではないが、不意にしてしまい相手を傷つける。しかもそれは、正確に言うと「してしまう」のではなく、してからその結果に気づく。「して」、「気づき」、「してしまった」と思う。
約束の時間に遅れた。大切な約束を特に深く考えずキャンセルした。大した理由じゃない。何気なく、それも結局どちらでもいいと思いながらの言動だ。しかしその結果は、相手を深く傷つけることとなる。
約束の時間に遅れることは、嫌なことらしい。約束の直前の変更は、嫌なことらしい。自分の思った通りにならないと、嫌らしい。もちろんそう思わない人もいると思うが、私の差し向かう相手はそう思うようだ。
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人の気持ちがわからない。気持ちの切り替わる瞬間がわからない。良いと悪いの境目がどこなのかわからない。当たり前だ。自分以外は他人なのだから。
嫌な理由は、考えてもすぐにはこれだとわからない。けど理由を言われると納得できるし、今後は気をつけようと思う。だから言われないと気づけない。誰かを悲しませたくないと思うけど、言われないと治せない。自分がこれでいいと思っていたことが、知らずのうちに相手を傷つけている。
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私は面倒なやつなのかもしれない。自分でも、こんな自分の相手は面倒だろうなと思う。付き合ってくれる人たちが愛おしい。
身の回りの多くを、私は私自身のこととして捉えていないのかもしれない。いつだって第三者のつもりで、正面から関わろうとしていないのかもしれない。不和が嫌いな私は、誰かのまっすぐを体よくいなしているだけなのかもしれない。
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人生のだいたいは暇つぶしの連続だと思う。趣味や仕事やあれやこれやも、突き詰めて暇つぶしだ。どうでもいいことを積み重ねることで、退屈で死なないようにしている。
教授はこうも言っていた。
「我慢は『どうでもいいこと』、好き勝手は『どうでもよくないこと』と言えるかもしれませんね。」
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退屈で死なないように生きている私は、きっとどうでもよくないことも見失おうとしている。どうでもいいことに埋もれ、本当に大切なことがぼやけようとしている。見えているものを、自分で隠そうとしている。
それは嫌だなあと思う。せめて、肌感覚でわかるものは大切にしたい。失って気づくという失いたくないものを、その感覚だけを信じて大切にしたい。相手を想う想像力を忘れないようにしたい。感覚を言葉にすることは、本当に大切なことを見極め、『どうでもいいこと』に仕分けしてしまわないようにすることかもしれない。感覚は気持ちだ。