嫌なこと(マイナス)+ご褒美(プラス)=0
これは私の体験を元に弾き出した計算だ。
結論から言うと、
嫌なことを頑張った報酬としてのご褒美って意味がない。
私は、以前は嫌なことを頑張ってイヤイヤやっていた。
そのご褒美と称して、
可愛い服を買ったり、
美味しいものを食べたり、
ヒーリングに行ったりマッサージに行ったりした。
頑張った自分へのねぎらい。
頑張った自分への滋養だ。
嫌なことはいろいろあったけど、嫌なことの代表格は仕事だった。
(「その嫌な仕事を選択していたのは紛れもなく自分だよ〜!」って、今は突っ込みたいところ…)
朝起きた瞬間から仕事が嫌で体が重い。
それでもなんとか仕事に行って一日働く。
休みの日は仕事を頑張ったご褒美を自分に与える。
そのご褒美によって一瞬は疲れから解放されるけど、次の日はまた仕事。
再び重たい体で仕事に行く。
ボーナスが出れば普段買えなかったちょっと高価なものを買ったり。
いつもよりさらに良いランチを食べに行ったり。
それで、お金がす〜ぐどっか行っちゃうんだ。
とにかく、何かにつけて自分へのご褒美を与えていた。
だって、そうでもしなきゃやってられなかったんだもん。
そういう自分がある時、変化してたことに気がついたんだ。
なんと、
頑張ったご褒美を全くしなくなっていた。
ご褒美を我慢したわけではなく、
気づいたら自然とそうなっていた。
なぜそんな変化があったのか。
それは私が嫌なことを頑張ってするのをやめて、
自分が本当に望んでいることをするようにしたから。
これは結構奥が深い。
まずは「自分が本当に望んでいること」が何なのかを心・体・魂レベルで理解することが必要。
(ここのところは長くなるので今回は省略)
私の望んでいることは、
とにかく瞬間、瞬間を心地よく過ごしたいということだった。
自分にとって心地よくないことはしない、
自分にとって心地よいことをする。
それを日々の生活の中でできるかぎり行っていった。
心地よくない仕事、人間関係はやめた。
すると、前みたいな「イヤイヤ頑張ったご褒美」が全くいらなくなったのだ。
私にとってご褒美は、
嫌なことをしてストレス状態の自分に報酬として与えるものだったから。
その報酬があるから嫌なことを頑張っていたとも言える。
また、ご褒美というよりはストレス発散だったとも言える。
そして、
報酬は最初は小さなものでよかったのに、
慣れてきて小さいものでは足りないと感じるように。
どんどん大きな報酬が欲しくなっていく。
ドラッグやアルコールのように。
(そういう生き方しか知らなかったんだ。生きるってそういうことだと思っていたんだ…)
嫌なことをしてご褒美を求めていた時代と、
望みを叶えて褒美がいらなくなった時代。
これを比較した時に面白いことに気がついた。
嫌なことを頑張ったご褒美に欲しいものを買うのは、
一見プラスに思えるけど差し引き0になるだけだった。
昔はずーっとこのご褒美システムの中に生きてたから頑張っても頑張っても欠乏感がすごかったんだな。
だって、
ご褒美でマイナスはゼロになるけど、
また嫌なことをするからすぐにマイナスになる。
マイナス→ゼロ→マイナス→ゼロの繰り返しで永遠にプラスになることがない
これをやめて自分の望みを叶える生活をしていると、日常生活そのものがご褒美になっていくんだ。
何か大きなことをする必要もない。
自分の望みを叶えるプロセス自体も喜びだからそれがご褒美。
叶った結果自体もご褒美。
だからわざわざ、別のご褒美を欲しくなることがないのだ。
好きなことしてたら、生きてることがご褒美そのものになる♡
日々の生活そのものがご褒美の人生、本当におすすめ。
最初は、ささやかなことからで良い。
小さな嫌なことをやめてみる。
たとえば、みんなに合わせてやっているけど本当は自分はしたくないことをやめるとか。
小さな望みを叶える。
ご飯を食べる時、本当に食べたいものを自分に食べさせてあげるとか。
この二つを丁寧にやっていくところから。
(こういうワークに興味ある人たちと、一緒に取り組んでいくコミュニテイ、作りたいな…)