カレーの匂い
「おい、おまえ、いっつもカレーのにおいするな!」
「カレーおんなカレーおんな!」
ある日突然、私に付けられた、「カレー女」というあだ名。
自分の家がカレー屋をやっていたから、食事にもカレーが多いな、とは思っていたが、自分からカレーの匂いがするとは思ったことが無かった。
だが、自宅でカレー屋をやっていて、毎日カレーの香りに包まれていれば、自然と全身にカレーの匂いがまとわり付くだろう。
今なら当たり前に思えることだが、そんなあだ名を付けられたことは、小学生の女の子にはかなりな事件だった。
その日その後、私は一言も喋れなくなり、泣きながら家に帰った。
家(店)に着くと、店の前に人が並んでいた。
いつものことだった。
並んでいる大人の前を横切って、私はいつもなら店のドアを開けて言うのだった。
「ただいまー!」
それを言わないと、母がとがめるからだった。
「ただいま言わないと、いつ帰ったかわからないでしょ!」
言わなかった夜は、食事の時、母はそう言いながら、店に出すのと同じ子供用のカレーをよそってくれた。
あだ名事件の日、しょんぼりしながら大人をかき分け、店のドアを押し開けた。
「ただいま」
言ったような気もするが、言わなかったかもしれない。
晩ご飯の時、母が半分怒りながら言ってきた。
「いつ帰ったのよ。ただいまって言わなかったでしょ?」
突然私はこらえられなくなって、わんわん泣き出した。
「だって!私!カレー女だもん!カレー女だもん!」
気付くと、母のエプロンに顔を押し付けて泣きじゃくっていた。
「うちがカレー屋だから!カレー屋だから!」
母は察したらしく、優しく私を抱きしめながら、耳元で言った。
「うちはカレー屋。だからカレーのにおいがするわ。でもそれは、りりとお父さんとお母さん、三人のにおいなのよ。あなたはカレー女だし、お父さんはカレーパパ、お母さんはカレーママ。だから三人で、カレー家族。カッコイイね!」
カレー家族がカッコイイだなんて…。
バカみたいだと思った。
一瞬でしらけて、泣いているのがバカらしくなってしまった。
「カレー家族なんてカッコ悪いよ!」
そう言いながら母の腕を振り払い、閉店した店の厨房で鍋を見る、父のところに駆けつけた。
「お父さんのバカ!カレー屋なんか!カレー屋なんか!」
父は、ポカンとした顔をしていたが、そばに来た母がこう言った。
「りり、お父さんはね、りりやお母さんと同じくらいカレーが好きなのよ!そんなこと言わないの!」
そう叱りながら、私を平手でぶった。
その瞬間、母は、あっ、という顔をしていた。
最初で最後、母にぶたれたのは、それきりだ。
父が弱々しく、言った。
「俺、カレー嫌いなんだけど…」