「誰も知らない取材ノート」 〔序章10〕
中井由梨子が『20歳のソウル』を書くにあたり取材した記録。当時の様子が鮮明に書かれています。取材ノートのため、『20歳のソウル』に登場する人物以外の実名は伏せてあります。
翌日の午後のことでした。その時間まで先生からのお返事はなかったので、やはり今日いきなりの訪問は難しかったか、と思っていた矢先でした。ちょうどその日の昼、私はA氏と中野の劇場で知り合いの俳優さんが出演されているお芝居を観ていました。観劇後、スマホを開くと先生からのお返事が届いていたのです。
『話も一緒でいいですよー。七時以降でしたら、どうぞ』
またもや私は声に出して「えっ」と言いました。七時以降ということは、夜間帯ということです。夜間に学校を訪問するという考えはありませんでした。何度見ても「七時以降」と書かれてあります。やっぱり夜です。私は慌てました。その日の訪問はないだろうと考えていて、すっかり気を緩めていたのです。
その頃、私の主な収入源は、作家としての仕事ではなく事務のアルバイトでした。NPO日本パーソナルカラー協会という、「パーソナルカラー診断」を軸にした検定運営やイベントを管轄するNPOの事務員として働いており、もう7年目になっていました。最初は週2~3日だったのが、その頃は週5日みっちり勤務しており、内容も通常の事務から宣伝、経理の補佐など多岐に亘っていました。私の我儘を受け入れていただき、演劇のお仕事と両立した働き方を認めてくださった寛大な職場に恵まれて7年間も活動してきたのですが、そろそろ私も自分の創作活動に本腰を置きたいと、慣れ親しんだその職場を退職し、芸能一本に仕事を絞って歩き出した矢先でした。そのような理由で、その日の夜は、カラー協会の皆様が私の送別会を用意してくださっていた日だったのです。私の直属の上司、先生方、理事の方々が日程調整をして集まってくださる予定でした。
悩みました。
これは…どうしたものか。
『今夜は予定がありまして、明日以降はいかがでしょうか』
という返事を、絶対にしたくないと思いました。もし、そのようなお返事をしたら、高橋先生は私のことを信頼してくださらない、と思いました。もちろん、会ってはくださるでしょう。お話もしてくださるかもしれません。ですが、「信頼」とは理屈で語れないこともあります。この時の私は直感的に、今日行かなければ次はない、と思いました。A氏に相談しましたら、「僕なら(先生のところに)行くけど」との答え。やっぱり…と思い、決意を固めました。私はその足で、カラー協会の事務所へ行きました。
「申し訳ありません!」
上司に、先生方に、頭を下げました。
「今日、行かないとダメなんです。行かせてください」
そんなことを言った気がします。これまで私の我儘を何度も許し、たくさんの仕事中の失敗も、私のいい加減な性格もすべて受け入れてくださっていた上司でした。最後の最後まで、私は我儘を通すのか、と自分を責めながらもそうせずにはおれませんでした。
「良かったじゃん!行ってきなよ」
上司の一言はそれでした。泣きそうになりました。事務所の皆さんが「頑張っておいで」と送り出してくださいました。そしてその場で、倉庫に隠しておいてくださった、私が送別会でもらう予定だった大きな花束(ピンク色だった気がします)をくださいました。(結局その後、送別会のパーティをキャンセルすることができず、皆さんは私不在のまま、食事会だけをしてくださったそうです。本当に申し訳ありませんでした)その日の夜に割いてくださっていた皆さんの時間も、お金も、私はすべて心で受け止め、市船に向かうことになりました。大きな花束を抱え、私はまず渋谷へ行きました。その日の服は送別会用のひらひらのワンピース。こんな格好では失礼だと思い、かといって家に帰る時間もなかったので、渋谷のH&Mで黒いパンツと白いシャツを買い、当時、渋谷にあったA氏のバーの店内をお借りして着替えました。その時、手が震えていたのを思い出します。一気に緊張し始めました。とにもかくにもお返事をせねばと、すぐに下記のように送りました。
『ご連絡ありがとうございます。お時間いただき感謝です。七時頃東船橋に到着する予定で参ります。着きましたらご連絡いたします。よろしくお願いします』
先生は「わかりました」とお返事をくださいました。
しかし、取材に何を持って行けばよいのやら分かりません。普通はボイスレコーダーなるものを持参するのでしょうが、私は持っていませんでした。そもそも、取材をさせてもらえるのかさえ、現時点では分からないのです。メモ用のノートと、自分の名刺くらいしか持ち物を思いつきません。本当に身一つの体当たりとなりそうな気がしました。そもそも、最寄りの東船橋駅までいったいどのようなルートでどのくらいかかるのか、まったく知りません。乗換案内アプリで調べてみると、私の住む東横線の最寄駅から日比谷線、東西線と乗り継ぎ、西船橋駅でJR総武線に乗り換えて二駅目です。所要時間は一時間半。小旅行と言えそうな距離です。乗り込んだ電車の車窓から西日が強く差し込んでいました。車中、私はスマホの画面でラインを開くと、これから高橋先生にお会いする旨をA氏に報告しました。A氏は「頑張って!」とエールを送ってくださいました。普段なら本を読んだりメール処理をして過ごす電車の時間も、本当に緊張していて、窓の外の夕日ばかりをじっと見つめていました。日比谷線の茅場町で乗り換えです。東京メトロ東西線はあまり使ったことがなく、そこから三十分近く電車に揺られました。平日の夕方六時頃といえば、帰宅ラッシュの時間です。満員電車の中、私は頭の中でシュミレーションを行っていました。大義くんのことを伺う前に、まず私自身を知っていただかなければと思いました。私自身を信頼してくださらないまま、お話をしてくださるわけはないのだから、きちんと自分自身を説明しなければと思いました。が、自分を紹介することが私は本当に苦手です。うまく話せるだろうかと不安でした。また、素朴な疑問として、高橋先生はどんな人なんだろうと思っていました。メールの文面からすると、あっさりした性格で、物事の白黒をはっきりつけるタイプの人かなと思えるけれども、あの告別式の時の映像の、泣きながら指揮をしていらっしゃる姿を思い出すと、とても情感のある方のような気もします。早くお会いしたいような少し怖いような気持ちでした。
西船橋でJR線に乗り換える頃にはすっかり日が落ちて辺りは薄暗くなっています。東船橋の駅に到着してみると、もう辺りは真っ暗でした。比較的小さな駅です。一つしかない改札を出ますが、出口が左右に分かれてあります。私は改札を出たところで、スマホを取り出しました。高橋先生から、駅に着いたら連絡をくださいと言われていたためです。ここで初めて電話でお話することになり、緊張しました。普段より一層はっきりと喋ろうと思い、思い切って電話をかけました。
「もしもし、昨日ご連絡した中井です」
緊張しながら切り出します。間を空けず、ハリのある太い声が返ってきました。
「いま、どちらですか」
「東船橋駅です」
「市船まで来てもらえますか、そこから十分もかかりません」
「はい」
先生の声はハスキーでインパクトがありました。少し早口な感じもします。昔、頭の回転の速い人は喋るスピードも速い、という話を聞いたことがあり、それを思い出しました。次から次へとやることがある先生ですから、嫌でも早口になるのかもしれません。先生は続けてこう仰いました。
「その辺に制服で歩いてる子がいるでしょう。彼らに聞いてください、みんな市船生だから」
その言葉に、私は思わずフフと笑ってしまいそうになりました。みんな市船生だから、と言う語尾に親しみを感じました。あったかさ、ということかもしれません。私は自然に語気を緩めつつ、先生に言いました。
「では今から向かいます」
「はーい、よろしくー!」
先生は勢いよくそう仰って、電話を切りました。それまで私の頭をグルグルと回って凝り固まっていたアイデアや緊張が一気にほぐれていく気がしました。緊張や不安よりも、早く先生に会ってみたいというわくわく感が湧いてきました。私はスマホをパンツのポケットに入れると、市船生たちを探して、ロータリーへの階段を降りていきました。
(序章 終わり)
中井由梨子(作家・脚本家・演出家・女優)
代表作『20歳のソウル』(小学館/幻冬舎文庫)
映画化決定!2022年全国公開
出演:神尾楓樹/佐藤浩市
取材を初めて4年。
大義くんが愛した「市船吹奏楽部」はコロナの感染拡大で、苦難の時に立たされています。今年3月に行われた映画のロケでは、部員の皆さん総出で出演・協力してくださいました。顧問の高橋健一先生の熱い想いとともに、部員の皆さんのひたむきさ、音楽を愛する心、市船を愛する心がひしひしと伝わってくる撮影でした。皆さんに恩返しするためにもそして皆さんに出会わせてくれた大義くんに喜んでもらうためにも来年の映画公開に向け、少しでも多くの皆さまに、「市船吹奏楽部」を知ってほしい。私が『20歳のソウル』の前に書いていた取材ノートを公開します。これは、ごく一部の出版関係者の方にしかお見せしていませんでしたが、取材当時の様子が鮮明に描かれた記録です。私自身のことも多く書いてあり、少し恥ずかしいところもありますが、私と大義くんとの出会いを追体験していただけたら幸いです。
皆さまのお心に「市船soul」が鳴り響きますように。
大義くんからの「生ききれ!」というメッセージが届きますように。