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もうひとつの「20歳のソウル」斗真の物語⑤

 市船吹奏楽部のことを、僕は何も知らなかった。

 そもそも、高校の吹奏楽部など興味すらなかった。同じ年の奴らとただ楽器を吹いて曲を演奏するだけの活動など、何が面白いのだろうとすら思っていた。それに高校では顧問は普通の教員だ。同じ時間を使って教わるならプロに教わりたいし、何より作曲を学びたい。既製の曲を演奏するだけなんて退屈だ。それに、同級生たちと一緒に群れることがどうしても苦手だ。部活となると音楽だけやっていればいいわけではなく、集団行動が必要になる。合宿があったり、季節によっては行事をやったりミーティングしたり、集団が嫌いな僕にとって地獄のような活動も多いのだ。それで中学では早々に吹奏楽部からは撤退した。僕に、集団行動は向いてない。

 なのに。

 なぜか入部届を提出してしまった。市船吹奏楽部に。あの日、夕陽の中で弾いたピアノと、高橋先生と交わした言葉の中に理由があるのかもしれない。あるいは体育館で聞いた、腹を蹴るようなエネルギーの詰まったサウンドに惹かれているのかもしれない。その出所がいったいどういう場所なのかを、ただ知りたいのかもしれなかった。
 とにかく僕は、吹部に入った。が、一週間経っても、部室に足は向かなかった。他の生徒たちがめいめいの部活に在籍し、手探りながらも活動を始めていくのを横目で見ながら、授業が終わると僕は逃げるように校門を速足ですり抜けた。入ったはいいが、どうしても足が向かない。特に市船の吹部は巨大だ。3学年合わせて100人以上。そのタテ社会を想像しただけで喉が詰まる。今日こそ行ってみようと思う日もあったが、途中から参加するのもそれはそれでかなり気まずい。ズルズルと日だけが過ぎてゆき、僕が吹部のユーレイ部員となって、3週間が経とうとしていた。

 ある月曜日、いつものように学校に出かけようとして、僕は部屋を出た。珍しく父と母が揃ってリビングにいた。和やかな雰囲気、とは言い難かったが、言い争っている様子でもなかった。

「じゃあ、行ってくるわね」
母がリビングを出る。僕と目が合った。
「斗真。出るの?」
「うん」
「じゃあ、一緒に駅まで行く?」
「…うん」
 なんとなくそう答えてしまって、僕は母と並んで玄関を出た。母と一緒に駅へ歩くなんて、何年ぶりだろう。
「吹部、どう?」
母は話題を探しながら言う。僕は言葉を選んだ。
「まあ、普通かな」
「楽しい?」
「うん、楽しいよ」
母はそっか、と相槌を打った。
「お父さん、今日からしばらく海外だって」
母が急に大きな声で言った。
「ふうん」
父の出張は珍しいことじゃない。演奏旅行で一ヶ月以上いないことだってざらにある。
「お母さんも、しばらくいないから」
母はなんでもない口調で続けた。あ、そうですか。言いたいことは、そっちなんだな
「なんで?」
僕はあえて聞き返した。
「仕事。ちょっと地方でね」
見え見えのウソをついて、母は笑った。そっか。地方ね。誰と?
「行ってらっしゃい」
僕はなんでもない口調で返した。
「うん。お土産買ってくるね」
「いらないよ」
駅が近づいてきた。母の通勤電車と、僕が乗る電車は逆方向だ。改札を通り、僕はそのまま母に背を向けた。
「いってらっしゃい」
母の声が背中にコツンとあたった。返事はしなかった。
いいな、大人ってやつは。
自由で。
 東船橋の駅を出て、朝の陽ざしの中を淡々と僕は歩いた。入学して3週間たっても、僕は誰とも付き合おうとは思わなかった。だからまだ友達はいない。学校へ行っても、いつも一人でいることが多い。誰かが話しかけてきても、会話は続かない。たまに、こないだ「告白」してきたカレンが目を合わせてくることもある。けど、それだけだ。
前や横を歩く学生服にどんどん追い越された。友人と話しながら、一人で淡々と、大声でふざけたり、喋ったり、走ったり、歩いたり。そんな高校生たちの中に僕は混ざって、僕も同じ場所へ吸い込まれていく。灰色の一日をただ、机に座って過ごす。一日のうちの7時間だか8時間といった時間を、淡々とあの机に座って過ごすのだ。対して興味もないことを学ぶために。

 なんの意味がある?

 ふいに虚無感が僕を襲った。

 今日の一日。これから8時間。僕は意味もなく体をあの教室の中に置いて、何の意味がある?まったく生産性のない時間だ。授業の内容なんか半分も入ってきやしない。これからの8時間、もし僕が自由だったら、僕は何をするだろう。
音楽。
まるで稲妻が走るように僕の中にアイデアが走った。
音楽だ、音楽を作りたい。
今日、今、この瞬間。僕は曲を作りたい。胸の奥でつっかえていた思いを吐き出すように、僕は大声で叫びたくなった。学校で死んだように座っている時間がひどくもったいなく思えた。音楽を作りたい!
脳内に洪水のようにメロディが流れ始めた。
僕は踵を返して駅へと戻った。今、形にしなければ零れ落ちてしまう。僕は何も考えずに制服姿たちと逆行して走り、電車に飛び乗った。
誰もいない家に飛び込み、靴を投げだすように脱いで部屋へ駆けこむ。平日の昼間の僕の部屋はなんだか知らない空気感に満ちていた。そのまま鞄をベッドに放り出し、僕はキーボードの前に座った。洪水を起こしているメロディを弾いてみる。その音を聞いてまた脳みそが跳ね返り、新しいアイデアが溢れる。五線譜を開いた。音符を書きなぐり、また鍵盤に戻る。

楽しい。
目的なんかない。ただ、音楽を作る。それだけが楽しい。
それから僕は曲作りに没頭した。文字通り寝食を忘れた。両親ともにいない、僕一人の時間はこれ以上ない贅沢なものだった。誰にも干渉されず、指示もされず、ただ、作曲に没頭できた。腹が減ったらコンビニに走り、また戻って作業を続ける。夜中3時頃に仮眠し、5時ごろ目覚める。そのうち、時間など気にしなくなった。

この曲を完成させたい。
 最初は心の奥でチリチリと燃えていた罪悪感も、そのうちに鎮火して何も気にならなくなった。何度か寝て起きてを繰り返しているうちに、今が何日目なのかも忘れてしまった。

「できた…!」

 僕は完成した楽譜を丁寧にまとめて、キーボードの前に置いた。
深く深呼吸して、最初の一音から弾いてみる。まるで、自分が作った曲ではないような気がした。今まで聴いたどれよりも切なくて優しいバラード。僕のすぐ傍に寄り添って、語りかけてくるような旋律。この曲を僕が作ったんだ。本当に僕が?

 凄い。

 弾き終わると、僕はベッドに体を投げだした。これまで、メロディの断片を組み合わせたり、アレンジしたりはしてみたけれど、一曲をすべてを完成させたのはこれが初めてだった。これほど集中して作曲に没頭できたことも初めてだった。何か、自分の中で固い殻が弾けて割れたような感覚。その殻の中から新しい自分が赤ん坊のような柔肌に包まれて生まれたような、目に見えるものがすべて明るく新しく見えて煌めいていた。
そのまま、僕は目を閉じて深い眠りに落ちた。
次に目覚めたのは明け方の4時。

僕が学校を欠席した日から3日と12時間が過ぎ去っていた。

                            (つづく) 

 ※現在公開中の映画『20歳のソウル』第一稿をもとにした佐伯斗真のスピンオフ。映画用に作った斗真の裏設定を元に描いたストーリーですので、こちらの小説に登場する人物・エピソードは、中井由梨子が創作した架空の人物・物語であり、実在の人物、市船とは全く関係のないフィクションです。


 


 

 

 

 

 

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