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母の言った決定的なひとこと

本当に様々な事がありすぎた。
9年かもっとかその間に簡単には文字に綴りきれない事ばかり。悲観して自暴自棄になり26歳になったらこの世とおさらばするつもりで本気で悔いの無い様終わりに向けてやりたい事をあれもこれもやったりした事もある。

結局私は今生きている。

終える事はいつでも出来るのだと自分の中で肯定してからは26歳で終わらせる事に拘る事をやめた。辞めれた。だから私はこれからも別にいつだって終わらせる事は簡単でそしていずれ嫌でもやってくるのだから今はそこにフォーカスをあてる必要が無いとなんとか踏みとどまっている。今は。チクタクチクタク。

様々あり過ぎて疲弊してしまっている。
連続的にこんな暗い事ばかり書いていて読んでくれる人に嫌な思いをさせてしまわないか怖い。
けれど表で綴って来なかった事人に言わずに隠してきた事を綴る為の場として自分を抱きしめれる様になる為に書いている。
そこだけはブレない。

居心地の悪い実家から縛られたくなくて自由に生きたい為に家を出る口実として実父と同棲を始めて当然の様に子供を産んだのだ。兄と私と。
私がどんな話の内容でどうやって聞いたかはもう忘れてしまった。しかし母は言ったのだ。
家から逃げたかった。それが理由だと断言した。

つまり

兄も私も心から望まれて産まれた訳ではなく。
成り行きで家から逃げる為にとった手段の中でたまたま出来たものだという事だ。
私にはそう聞こえた。話を飾り聞こえ良く話してくるのが嫌にうまい家系なので一見聞こえが良く周囲の人達からは母は賞賛されまくりだ。

しかし

私はその母の素を知っている。
だからこの人とは人生が一度も寄り添い合う事は無いんだと凄く冷たい感覚で思う。
今でも自由と無責任を謳歌して人に持て囃されるのが大好きな母は私の事は付属品だと思っている。
体の弱い私を懸命に支える健気な母親を演じ周囲から心配され気丈に振る舞い健気な人だと人の印象操作をするのがすこぶるうまいので事情を知らない人達からは
「あなたのお母さんは素敵な人で苦労なさってるから支えてあげてね」
と常々言われるのだ。
私は説明が面倒でそして説明しても色々ギクシャクするだけなのでそう言われたらニッコリ笑って「はい。」と言う。
マリオネットに徹する事で今までなんとか生きて来た。しかし数年前からマリオネットをする事に疲れてしまった。自分の心がマリオネットを嫌っている事が解ったので、諦めた「はい。」を出すのではなく「受け流す、スルーする」と言う事を覚えた。そうして母親の事で周囲から言われる大半の事はマリオネットをせずにスルーする事に成功していきている。
相容れないのだから仕方ない。
そう思っても物悲しいものがあるのは事実。

義父の本心からの要望

終わりなんだな。
そう理解するしかない1言というのは妙に心の中に居座ってくる。厄介だ。

以前綴った中に書いた養子縁組解消の用紙が送られてきた時の話し。
割愛してしまった部分の愛が無かった、途切れた瞬間だなと感じた部分を綴りたい。
養子縁組解消の要望書類には私も目を通した。
要約すると
「遺産相続をさせたくないので遺産相続の放棄をして直ちに養子縁組を解消する事に同意しろ。同意しないならばそれ相応の対処をする。」
という事だった。

ここで言うそれ相応の対処とは義父の意味合いでは嫌がらせを意味する。

盗聴器はついてないか?

義父名義のものを困ると解って解約凍結されないか?

興信所を使ってこちらを監視していないか?

他の知り合いから話が漏れてないか?

当時は様々な事に繊細な注意を払った。
そういう事を平然とやってのけるのが義父だからだ。実際別居になってから家族で使用していた車をなんの前触れもなく突然取り上げられてしまった。通院に必要だと解っているのに車を勝手に他所へやってしまうのだ。
これにはいくらパパっ子であった私も呆れ果てて頭を抱えた。カウンセリングに行く為に車が必要なのに、なんの相談もしてくれなかった。
慌てて中古の軽自動車を買って暫くはそれに乗って過ごした。

これはほんの一部。綴ればキリがない。

私は養子縁組の解消は義父がそう望むなら義父の気持ちを尊重したいと最初は考えていた。
しかし遺産を相続させたくない為に解消しろという本心を知って、お金が欲しいんじゃない。
そう心から思った。
例え養子縁組を続けたとして義父の遺産等1ミリも要らないし望まない。
義父からそう思われている事実が痛くて悲しかった。だからそんな養子縁組なら紙切れ一枚でしかないのでこちらから解消を快諾したのだ。
どんなになっても義父を育ての親だと思っていた。思い続けたかった。
それが面白い程に解りやすく終わりであると叩き付けられた様なそんな感じだった。
愛は無かった。
そして勘違いしてた愛もそれは今お金の心配と共に途切れた瞬間だった。

これ以降、私はずっと針山の上を歩く様な綱渡りのロープを渡る様な常に不安と恐怖心で生きる感覚になってしまった。
『生きなければならない』『ちゃんと皆みたいにきちんとして生きなければならない』に変化していって『自分で何でも対処出来なければならない』と脅迫的に追い込まれる様になってしまった。

「そとさん」の精神的虐待の漫画に出会って読んで何故か解らないけど涙が出て泣いた。
おこがましいにも程があるだろうが、凄く共感したからだと思う。自立心が脅迫的、という言葉には本当に、それな!を100万回連打してもしたりないのではないだろうか。

母にも義父にも愛情があったのか無かったのか私には解らない。まやかしの家庭だったならその時の気持ちは嘘だった事になるから。
本当の所どうなのか、というのを義父と2人で話したかった時期もあった。本当は夢があった。
ゴタゴタする頃かその後かその前か記憶は定かではないけれど私が20歳になったら父と2人でお酒を酌み交わしたかった。
義父が私の事をどう思っていたのかそれを聞く機会が無くなってしまった事でより一層聞きたくてももう聞けないので辛い気持ちになる事もある。愛情とはなんなのか。
両親からの無償の愛情や変わらずにある不変的な環境というのが私には解らなくなってしまった。

そして出会ったのがゲーム配信

転機だと直感で思った。
最初はダッチワイフの復讐ゲームがバズっていた事から知ったのだがリアルタイムで見始めたのはジラフタウンの途中からだ。

以降、チャンネルメンバーに加入しゲーム配信を楽しんできた。ここで知った優しさの種類や生き辛さを抱えながらなんとか向き合おうとする方々に出会って何か掴めそうな気がした。
今なんとか生きる理由はそんな高い所に求める必要は無い。純粋にゲームを楽しんでいる人達と配信で一緒に楽しめれば充分だし、そこから各々考える事自体既に凄い事だと確信しています。

失って途方に暮れて、そしてまた得た事もある。
とはいえ日々発作の頻発で辛い事は変わらない。けれど今までのはなから諦めた姿勢ではなくて咀嚼しようとしてみている事は前向きになった私の一部だと信じたい。

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