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ADHDを超越した話。

こんにちは。
今回は、ビジネスプランについての投稿ではなく、投稿企画に参加させてください。ってことで、「ADHDを超越した話」について話させてください

#想像していなかった未来

ADHDとは

ADHDとは、年齢あるいは発達に比べて注意力が足りない、衝動的で落ち着きがないといった特性があるために日常生活に支障をきたしている状態のことです。医学的には“注意欠如・多動症”とも呼ばれます。

https://medicalnote.jp/

ADHDなん?そうじゃないん?どっちなんだい?

結論から話すと、疑似ADHDと呼ばれるものです。疑似ADHDとは「発達障害に似ているけれど、診断に至らない。」ような、ADHDの下位互換みたいな認識です。ん、なんだ。そんなことかよ!って思うかもしれませんが、過去から遡ってじっくり話していくので、読破したら「ADHDを超越した話。」の意味がわかるかもしれませんね。

小学生の時の卵かけてないご飯君

そうですね。自分で言うのはなんですが、マトモすぎる行儀のよく頭の良い子でした。少し恥ずかしいですが、ちょっと私の自慢を聞いてください。親が英才教育系のバリバリ教育家でしたので、勉強しかしてきませんでした。小学校の時には、集団塾を2つ掛け持ちし,個別指導塾を1つ,通信教材を1つこなしてました。なので、毎日のように塾に通い勉強中心というよりも勉強しかしてこなかった小学校生活を送ってきました。なので、みんなが背負っていたランドセルも、自分だけは塾専用のバックを学校に背負っていきました。まぁでも、親から強制されていたから周りとは変わっていたんだって思ってました。だって、学力はダントツの学年最高で、小学生の時には中三数学までは理解してました。逆にそれ、「ADHD」やん!ってなるかもですが、集団塾を2つ掛け持ちし,個別指導塾を1つ,通信教材を1つこなしてたらそんなもんか。。って納得しちゃいましたね。それは、自分だけじゃなくて親も先生も。なんなら、発達障がいの子をそんなに好きじゃなかったです。だって、「発達障がい=害」っていう認識が強かったからです。これに関しては補足しておきますが、実際はそんなことないです!固い偏見を持った子供でごめんなさい。話に戻りますが、やっぱり発達障がいの子がクラスにいて、度合いが重度だったので話し合いなどでは協調性にかけてしまう部分が多々あり、良い印象は抱いてませんでした。そんな、小学生の卵かけてないご飯君ですが、小5になるとゲームをしたいと親に猛反抗するんですね。困ったものですが、反抗期到来です。そこで、父親の影響でゲームの代わりにパソコンを与えてもらったわけなんですよ。これも、よくわからないですけどね。だって、その時はDSとかプレイステーションビータとかWiiとか。。パソコンゲームなんてなんのその!って感じでした。それに加えて、「PCゲームやるくらいなら、自分で作れ」と言い始めるしだい。ん、どういう試行回路してるんや!って、今では思いますが、当時の坊やはときめいちゃったんです。それで、PCでプログラミングをやることに。。。そこで、プログラミングを極めたいと志すようになりました。そんな状態で小6になりとうとうお受験まっしぐら?と思いきや、受験データを全てダウンロードしてデータベースを作っちゃう次第。結果的に、受験して附属に行き落ちこぼれるのを危険視して公立中学に通うことになりました。

中学生をしていた卵かけていないご飯君

なんだかんだで、中学生になりました。そこで、もとからまとめるのが好きだったTKG君は学級委員になるんですね。いやーすごい活動力ですよね。塾は2つ掛け持ちし化学実験系,プログラミング特化の塾に通い学級委員をして、美術部長,文化部長会部長,陸上部副部長,運動部長会副部長,生徒会会計,応援団副団長まで。んー、こんな表に出て勉強もできるから自分がADHDなんて考えるすきもありませんでした。また、内申が命だと言われていたので、従順に44/45を取り続けてきました(音楽だけは苦手で4)。毎回のテストでは、全科目平均を92に維持するようにしてました。ノートまとめはめちゃくちゃやりましたね。赤ボールペンは1ヶ月で1本無くなりました。ここまで来ると異常なんです。今考えると、納得ですがね。それで、ずっとそんな感じで塾と学校とちょっと家を行ったり来たりする生活で3年間終わりましたね。進路としては、アンチ制服アンチ校則坊やだったので偏差値高めの校則が無い学校へ。

高校生をしていた卵かけてないご飯君

とうとう、ADHDであることを少しも疑われずに,疑わずに高校生まで進むことができました。高校に入って、急にきたのがコロナウイルスですね。学校がオンライン授業となり、1年の時はほとんど学校に行くことがありませんでした。そんな中、高校になってスマホを使い始めたTKG君は困るわけです。誰も知らないのに、どうやってクラスの人と繋がれと?!そうなんです。普通は、instagramで入学前から友達になってるっぽいんですよね。#春から〇〇っていうタグで。いやーそれを知ったのが高校2年生で、本当に焦りましたよね。やはり、高校1年の時はどうやって友達を作るんや!ってもがきましたから。だからこそ、周りのクラスの人の雰囲気はマジでわからん!って感じだったわけです。高2になって、ようやく時差登校になり友達と接するようになりましたね。そこで、大きな環境変化があったんです。中学のとき位はいなかった、金髪ヤンキーにクソみたいにコミュ力が高いおしゃれ男子。流石校則ない学校だなと思いましたね。そこで、初めてされたんです。

お前、ADHDやん!笑笑

いやー軽いジョークだったんですよね。その時の自分は、まぁまぁ馴染めていたときだったので軽いいじりはできる仲だったんですよね。だから、ごく普通のいじりだったんです。ですが、その時の自分は、ADHDってなんや!ってなるわけです。それはADHDの大雑把な理解ではなく、診断方法や傾向など。。ADHDって、結局は個人の弱みだと思ってたんで。だから、適正に診断する方法がめちゃめちゃ気になり調べまくったんですよね。それで、論文とか読みまくって、こんな意見に行きつきました。「自分、ADHDや!」って。だけど、色々あって隠してましたね。だって、色々あったんですもん。親からは、「障がいなく健康に生まれてきてくれて嬉しいよ。ありがとう。障がいあったら、どうしよう」なんて言われ続けてましたから。そんな状況で、「障がい持ってます!僕!ごめんなさい!」なんて言える度胸なかったです。ましてや、障がいに対して過度な偏見を持ってたので、嫌でしたもん。そんな状況でずーっと隠してきました。すんごい考えましたよ。自分に向き合うべきだと。悪いことじゃないんだって言い聞かせました。すんごい、夜一人で泣きましたよ。自分が周りと違ったのは親の英才教育が原因なのではなく自分がADHDだからなんだって。わかっちゃいましたもん。自分が死んだって、何が変わるんや!ADHD一人死んだって、社会は回るだろうって。本気で考えてました。自殺願望すらありました。一人で死ぬには何がいいいんだって。飛び降り(人身事故)は迷惑かけるし、首吊りも自信ないし。。結果的には、化学実験で使うフェノールっていう薬品を飲んで、すぐに学校から出て走り出すことがいいって結論になりました。フェノールは皮膚についてから15分後くらいに化学火傷のような状態になります。痛くもないのに、すごい爛れるんです。だから、これを飲んですっごい勢いで走って逃げて、どっか隠れて休んでれば死ねるって思いました。そんな策かよって思うかもしれませんが、本当に死ぬ気で,死にたくて悩んでたんです。超アンチADHDがADHDだって自覚したんですもん。自分が嫌いってこうゆうことなんだって。結局、実行には至らず今生きてますけどね。それで、合理的に考えた結果、若いうちには楽に死ねないんだと、気づきました。それで、決めたんです。一生ADHDを隠して生きようって。その結果、死にもの狂いで健常者以上に勉強して,死に物狂いで自分を出さずに偶像を作り上げました。自分の趣味や日々の選択こそがADHDだとバレる原因であると感じたためです。だから、Yes/Noで答える質問では周りが答えるであろうものを言いました。さらには、一般論として答えるようにしました。そこで、人間の主観的意思決定における人間工学の分野や行動分析が好きになりました。いや、好きになったんじゃなくてうまーく生きていく上で必須のスキルだって感じたからです。それで、その分野でなんやかんや大学への進学を決めました。

とうとう大学生になった仮面ADHDのTKG君

めちゃくちゃ頑張りました。人間の趣味,趣向をいつも考えてオーソドックスな日本人であるように生きるようになりました。くっそみたいに論文を読み漁って一般の精神科医よりも論文を読みましたね。自分が自分でないように。自分が自分だとバレないように。それでたどり着いたのが今の自分なんです。今は大学2年ですが、めちゃくちゃに隠して健常者というコスプレをハロウィン関係なくずーっとしているんです。 だからこそ、今ではその形成した自己によって自己を確立している状態なんです。理想的な人間="優しい"で敬称される人,平均的な人="優しい"でしか敬称されない人だと考え続けました。だからこそ、全てにYesで引き受け"優しい"をゲットしていきました。八方美人であるように創っていきました。最近出た論文では、ADHDの人は金銭的報酬よりも他者からの承認欲求を具体化した”感謝”を求める傾向にあると言われています。自分もそうです。だからこそ、単なる"優しい人"として生きるために人との距離感は本当に気をつけています。ADHDを自己だけが認識し、誰にも負けないADHDについての知見を活かして超越した自己を形成する人生いなりました。こんなん、昔の自分では想像できなかったですね。社会的には、診断してもらって公にして生きていくのが望ましいとされているのはわかっています。重々承知しています。だけども、この超越した自己があるからこそADHDと向き合えている気がしています。だからこそ、向き合い方は人それぞれ、多様性!多様性!というだけではなく、いろんな人がいると理解するのではなく、自分と同じ方が珍しいと考えるようにすることをお願いしたいです。

本記事について

本記事を読んでいただき、ありがとうございました。
少し、暗めな話になってしまいましたが今の自分は超越した自分,想像していなかった未来を持てて超絶幸な人間です。
発達障がいに触れているので、少しディープな部分で気分を害された方がいらっしゃいましたら申し訳ございません。どうか、誰もが精神的に肉体的に生きやすい世の中になりますように。

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