ガタピシいう人間関係はどうしたらいい? - ブッダ先生の処方箋
「ガタピシ」って、ふすまや引き戸が「ガタガタ」いってスムーズにすべらず閉める時に「ピシッ」ってうるさい音になってしまう。
そんなイヤな状態。それが転じて人間関係にも使われている。
あの人との関係がうまくいかず「ガタピシ」いう。みたいな。
「ガタピシ」って、そう勝手に解釈してました。
でも、実はコレって仏教用語だそうです。
「我他彼此」って書くそうな。
我(じぶん)と他(あいて)と、彼と此。
彼と此は見慣れない使い方かもしれませんが、三途の川のアチラ側「彼岸」と、コチラ側「此岸」の彼此です。
この文字のとおり「我他彼此」は、自分側(こちら)、相手側(あちら)の対立や摩擦を指すコトバだそうです。
龍光ポストに頂くご相談の大半は「誰かとの関係がうまくいかない」、つまり人間関係のガタピシについてです。
このブログは、誰かと、ガタピシいって、スムーズな関係が築きにくいときに、どうするか。についてのハゲアタマなりの戯言です。
結論からいうと、状況により様々ですので、どんな時でも万能の「コレだ!」という解決策など無いのですが、「我他彼此のコトバの元となったブッダ先生の教えからヒントを頂きつつ、見ていきたいと思います🙏
まず、そもそも論ですが、ブッダは「善き友とともにいて、悪き友から離れよ」そして「善き友がいないなら、独り進め」と説いてます。
悪い人なら、そもそも付き合うなと。独りでいるほうがマシだと。
どんな人から避けるべきか、というのも説いてます。
正しくないことに囚われている人、貪るひと、怠る人は、そもそも避けなさい、と。
とはいっても、職場、学校、家族などで「避ける」のが難しい時もあるかもしれません。
そんな時は、どのように他人と接すれば、ガタピシいいにくく、スムーズになるか。
そのヒントとして、ブッダは、「偏見」や「見解」について多くの教えを遺してくれています。
なぜなら、「"こちら"と"あちら"」の見解の違いが、ガタピシいう関係を起こすからです。
ちょっと難解ですが、下記に自分なりの「見解」としての解説を加えてみます(つまり僕の「偏見」を含んだもので間違いがあるかもしれません)。
そもそも人は「自分の見解」に執着している。なので「自分の見解には偏見がある」と自覚するのは簡単ではない。
実は最新の脳科学が示す「意識のうまれかた」によると、自分の考え(意識)は「そうとしか考えられない」と感じさせる内容として、脳で"つくられる"。でも、その考えが"つくられる"脳内プロセスは自覚できない(無意識下で行わる)。なので、意識のうえに自分の考えが浮かんできた時には、そうとしか考えられない。
いわば、自分の見解が正しいと固執させる状態が、自覚なく生まれる。
だから、人は「自分は正しい」、「それは違う」と断定しがちになる。
けれど、それは自分に偏見があることを自覚できてないだけで、実は自分の見解に執着している状態の表れである。
では、どうしたらよいか。
これも、"自分なりの見解"としての解説を下記。
何かの解釈の仕方、ルールの運用のしかた、善い悪いの判断基準、"正しい"言葉遣いや行動や態度のありかた、そういったことの見解について、自分が誰かとの間で優劣をつけようと考えてはならない。
なぜなら、自分が誰かより「正しい(勝っている)」と感じた時は、「自分の見解への執着(偏見)」が生まれているかもしれないから。
にも関わらず、自分の見解に偏見があると疑わず、「自分の見解がゼッタイ正しい」と執着すると、他の意見は「つまらぬもの」に聞こえてしまう。
そうすると、論争は避けられなくなる。ガタピシしてしまう。
なぜなら、相手も同じく「正しい」と(偏見かもしれないけれど)執着を起こすものだし、誰だって「お前の意見はつまらぬ(劣っている)」と言われたらカチンとくるものだから。
でも、「自分か相手かの優劣を考えるな」とはいえ、何かしらの意見を採用し、決断を迫られることもあるじゃないか。
YesかNoか判断しないと前に進めないことがあるし。
そんな時はどうしたら・・・?
自分には正しく感じる「自分の意見」も、偏見かもしれないのだから、執着せず手放せというのか?
相手の意見だって、同じく、相手の偏見から生まれているものかもしれないのに…。
なんで、自分だけ譲らなければならないのだろう・・・。
こうした「自分は正しいはず。負けたくない」という感情が生まれることは自然なことでしょうし、それもブッダ先生いわく「自己への執着」なのですが…。
それを乗り越えるのは簡単ではないですよね。
それに、相手の意見が(自分にとっては)明らかに間違いに見える場合に、自分に執着せず、手放しで相手の意見を通してしまうことは、果たしてよいことなのでしょうか。
ブッダは、「優劣考えず、何も考えず、自分の考え(執着)を手放せ」と言っているワケではないのです。
ブッダは「あるがまま」捉えることの大切さを何度も語ってます。
人は、名称によって偏見を起こしやすい。
そうブッダは説いてます。
たとえば「インド人」と聞くと、いろんなイメージが浮かぶものかもしれません。「カレー好きそう」「よく喋る」「時間を守らない」などなど。
それが当てはまる人もいるでしょうが「インド人」にもいろいろな人がいるわけです。
自分の師匠の佐々井上人はインド国籍ですが、日本生まれです。僕の友人は日本生まれで日本育ちで日本に住んでますが、両親はインド人で、本人の見た目もインド人です。関西弁喋りますが、おとなしいし、僕より時間に正確です。カレーは好きですが😅。
「インド人」という"名称(呼び名)"によって、イメージが引っ張られるかもしれませんが、「あるがまま」にみたら、イメージとは違う姿だってあるかもしれない。「イメージ」は名称に引っ張られて勝手にうみだされた、偏見だったかもしれません。
このように、「自分か相手か」、「白か黒か」、を判断しないといけないように感じる場面でも、その"名称"に引っ張られ「どっちか」しかないようにイメージが膨らんでいるだけで、実は「あるがまま」にみたら、違う選択肢も見えてくるかも知れない。
頭に無自覚に浮かんだ「自分か」「相手か」というコトバ(名称)でラベルをつけて区別してみる行為が、それしか選択肢が無いような偏見を起こしているだけかもしれない。
実際の自然界には、完全な白も黒があるわけではない。
「白」とか「黒」と名付けて呼ぶから、実際にはその間のグラデーションを考えずに、「2つに1つ」という考えに引っ張られやすい。
でも、つねにその間(白に近い灰色や、実はブルーがかっている灰色とか)にもさまざまな色が溢れているのが「あるがまま」の姿では。
人間社会だって、自分か相手かだけが全てではない。
様々な人達が支え合って、繋がりあって成り立っている。人間だけではなく、様々な動植物や自然があってなりたっている。それらは、すべて何かしら影響しあい、依存しあっている。
そこで「自分」と「(自分でない)誰か」と、名前をつけて区別することで、なにやらそれが、相容れない対立したものに感じさせているのではないか(偏見を起こしているのではないか)。
実際には、会社や家族などとしてのひとつのコミュニティとして見たり、人類全体をひとつの存在としてみたり、地球全体の中での人間という一つの「系」でみたり、宇宙全体で捉えたり…。など。
「名前の付け方」「呼び方」によって、その対象の印象が変わりがち(偏見にひっぱられがち)なのが、コトバに頼る我々人間の性質なのでは。
そう、ブッダは理解し「あるがまま」を見つめよと説いたのでは。
そう俯瞰的に捉えると、「自分か相手か」というのは、とても狭い目線にとらわれているかもしれない。
もっと広い視点で社会を見渡せば、「自分か相手か」のどちらかだけではなく、相手の考えも汲み入れて、自分の譲りたくない部分も盛り込んだ「ほどよい」落とし所や、両者が納得しそうな斜め上のアイデアだってあるかもしれない。
だから、「あるがまま」を見るよう、こころがける。
白か黒か、相手か自分か、の選択に焦りを感じる時ほど、ふっと深呼吸をして、その両極端以外の選択肢がないのだろうか?と自分に問いかけてみる。
なぜなら、「白か黒しかない」という見解も、囚われによる偏見かもしれないのだから。
「あるがまま」の俯瞰的な見方が失われているのかもしれないのだから。
すぐに「自分か相手か(負けたくない!)」ととらわれず、俯瞰的にみる冷静さをもてれば、相手がなぜその意見を持っているのかを、対話のなかから詳しく知れるかもしれない。そうすると、自分のこだわりポイント、相手のこだわりポイントが浮かび上がって、「ほどよい」着地や、違う視点の解決策も見つかるかも知れない。
それが、ガタピシいわずに、スムーズに人間関係を保つコツなのでは。
そう、勝手ながら考えております。
まだまだ、このテーマについては、ヒントになるブッダの教えがあるのですが、長くなってしまうので、このへんで。
もう、十分長いかもしれませんね。
いつもお付き合いくださり、有難うございます🙏。
* ちなみに僕が書く 「ネ申」 は、僕にとって唯一絶対神である奥さまのことを指しています。一般名詞の「神」と区別すべく倍角文字で「ネ申」と表記させて頂いております🙏。
僕にとっては、ネ申の発言は真理しかなく、"Yes"か「はい」しか存在しない。
そういった見解をもっております😂🙏
有難うございます🙏