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「自分のモノ」は「思う通り」にならぬもの

自分のお金、自分のモノ、自分の子ども、自分の肩書、自分のプライド、自分の権利、自分の身体、自分の人生…。

それらは、大切なものですよね。

でも、恋も、仕事も、健康も、人生も、なかなか思う通りにはならなず、難しいものかもしれません。

なぜ「自分のモノ」が「思う通りにならない」のでしょう。

それは、「自分のモノ」は「自分だけのモノ」とは言い切れないものばかりだから。

そう勝手ながら考えております。

どういうことでしょう。
そして、どうしたら、あまり苦しまずに生きていけるでしょうか

このブログは、自分の大切なものに、どう苦しみすぎずに付き合えるかという、ただのハゲアタマなりの戯言です。

さて、ブッダ先生いわく、「苦しさ」は「思う通りにならない」という解釈が起こすもの。そして、生きていれば「思う通りにならない苦しさ」が起こるもの。
そう説いたと勝手ながら理解しています。

なぜなら、「自分のモノ」と感じる物事は「自分だけのモノ」とは言い切れないものばかりだから。

なので、生きていれば「思う通りにはならない苦しさ」が生まれがちになるもの。


でも、自分のお金や自分の身体や自分自身の精神など、「自分のモノ」では??

「自分のモノである」と感じる"それ"は、なぜ「自分のモノ」でないと言えるのでしょうか。


「自分のお金」は誰かが刷っているもの。その価値も社会情勢によって変化するもの。
自分の黄金や宝石やモノは、もともと自然界にあったものから生まれていて、その発掘力(供給量)と希少性(需要規模)によって、価値はかわるもの。
自分の子どもだって自分一人で産めず、その後の成長には様々な人が関わって育つもの。
自分の肩書だって複数の人がいる会社や社会があるから生まれるもので、権利だってコミュニティーの義務と引き換えに手に入るもの…。

「自分のもの」と感じさせるものは、常に何かしら、自然やまわりの人達との関係のなかで、はじめて生まれているものではないでしょうか。

それなのに、時に人は「自分(だけ)のモノ」として、思う通りに動かしたく感じ、「思うとおりでない」と悩ましくさせているのでは。

時に、紛争などの動乱で、貨幣の価値も激変し、子どもも戦争に持っていかれたり、人権のありかたも大いに変わることは、現代でもたった数十年前の日本でもおきた出来事です。

そして、悲しい災害は突如として起きてしまうもの。
自然の前ではカネも肩書も権利も、生命すらも「自分のもの」という声も虚しく、あっけなく流されてしまう。

紛争や災害が起きてない平和な日常のなかだって、自分の身体やこころですら、時に「自分の思う通りにはならない」ことだってある。

突然の病気や怪我、そして、悩ましい出来事や苦しい状況にぶちあたったり。

実際、我々の身体は常にたくさんの細胞が生まれ変わり、そのためには日々なにかしら「他の生命」を口に入れて自分の生命に繋いでいかないといけない。

ココロに影響を及ぼす様々な物質は、自分の腸内で、自分の細胞以上にたくさん"共生"している微生物によってなりたっている。

自分の身体やココロですら、自分という生き物一人で成り立っているわけではない。

そして、それら全ては、自然から生まれてきているもの。
ヒトごときの思う通りになるはずがないものから、起きているもの。

そう考えてみると、
我々ヒトという存在も、ただ自然の営みから生まれてきたもので、いずれ肉体も朽ちて自然にもどっていくものでしかなく、「自分の一生」も自然の営みの一部の現象であるかもしれません。

それを「自分(だけ)の想い通りになる」という考え自体が、もしかしたら「傲慢な錯覚」なのかもしれません。

自身の心や肉体ですら、自分だけでなりたってなどいないにも関わらず。

その事実を勇気をもって正しく自覚することが、大切なのではないでしょうか。

それは、何かを諦らめる(give upする)ことではなく、それが自然のことわりとして明らめることとも言えるかもしれません。

その自覚が生まれれば、「(自分だけの)思う通りにならない」という解釈は生まれにくい。
つまり「苦しさ」の感情は起こりにくくなる。

だって、自分一人で生きられているワケではないのだから。

とはいっても、誰しも自分はカワイイもので、自分が苦労して手に入れた「自分のもの」も大切に感じるのが自然なこと。
それはできれば失いたくないし、できればそのことで苦しみに苛まれたくない。


そんな時に大切なのが「苦楽を分かち合える仲間」なのではと思うのです。
「自分のこと」を"自分ごと"として向き合ってくれる、誰かの存在なのではと思うのです。

一緒に泣きあったり、笑い合ったりを共にできる、家族や親友など。

時にヒトごときではどうしようもない自然の変化も起きるものですし、ヒトの世も個人ではどうにもできない動乱も起きてしまうかもしれない。

そんな時こそ、支えあえる仲間の存在こそが、大切なのではと。

だから、「自分こそが」「自分だけが」と「がまま」になりすぎぬよう、周りの誰かも支えていく。

自分のことが大切なのは、周りの人たちだって、生き物たちだって同じはず。
だから、「自分だけが」とを張り過ぎぬよう、"ほどよく"自分と、その周りのためにも努力を重ねていく。

そうするほどに、「自分だけの思う通りにならない」苦しい出来事にぶつかっても、周りと互いに支え合って、苦しさを和らげて生きていけるものかもしれません。

そんな、ハゲアタマの戯言でした。

今日もお付き合いくださり、有難うございます。

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龍光ブログ
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