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「シアワセ」のカギは、すでにそこに有るのかも
お金があれば、能力があれば、美貌があれば…。
「"ソレ"がないとシアワセになれない」はホントウでしょうか?
その"ソレ"があれば、"何か"の可能性を与えてくれるかもしれません。
でも、最終的に手にしたいのは、具体的に"何"でしょうか。
"ソレ"は、「シアワセ」以上に重要なものでしょうか。
"ソレ"は、あったほうが嬉しいものかもしれません。
でも、「ソレがないと…」という感覚は、
もしかしたら一部の錯覚も含んでいるかもしれない。
そして、「シアワセ」そのものは、じつは身近な所に最初からあるかもしれない。そんなふうに考えております。
こんな気づきを示唆するエピソードはいろいろありますよね。
ビジネス界で有名なものとして「漁師とコンサルタント」というエピソードがあります。ご存知の方も多いでしょうか。
都会でバリバリ忙しく稼ぐ毎日のコンサルタントが、久々の休暇で訪れた田舎の湖のほとりで、のんびりした時間に癒やされていた。
と、そこに、腕のよい漁師がいるのを目にする。
コンサル(C)「漁、お上手ですねぇ…もう漁おわりですか?」
漁師(F)「えぇ、家族が食える分、穫れたので」
C「漁のあとは何を?」
F「のんびり友達や家族と過ごしたり…」
C「じゃあ、もっと稼げますよ!その時間でもっと釣って、資金を得て、
投資して拡大して…。さらには自社株を売って大金持ちになって…」
F「ほぉ…。すごいねぇ。それで、どうなるのかね?」
C「…そしたら、まぁ…、田舎行って魚釣りでもしてのんびりとか…」
F「ほぉ…。でも、それ、今やってる事じゃが…」
すでにそこにあるシアワセは、「もっとカネがあるほうが…」という考えに囚われ、見えなくなっていた…。そんなふうに解釈しています。
そして、おそらくもっと多くの方に知られているエピソードが、「青い鳥」の童話ではと。
チルチルとミチルが、病気の少女のために「しあわせ」を運んでくれる青い鳥を探して旅に出る。
過去の国で、すでに亡くなった懐かしい祖父母に会えたけれど、そこでは青い鳥は見つからない。
夜の宮殿へ、恐れずに入っていくけれど、そこでも見つからない。
幸福の国では、刹那な喜びだけしか出会えず、青い鳥はみつからない。
未来の国でも、希望や可能性はあるけれど、青い鳥はみつからない。
散々探しても見つからないのだが、気がつけば、実は家に最初から居た鳥が青くなっていた。
「しあわせ」が「どこかにある」と外に求めて探したのだが、なかなか見つからない。でも、気がつけば、すでにそこにあった。
これらのエピソードは、様々な解釈があると思います。
僕は、決して「稼ごうとすること」や「シアワセを手にしてくれそうな"何か"」をどこかに追い求めることが、意味がないとか、良くないと言いたいわけではありません。
むしろ、どちらのエピソードも、
何かを求める行動をおこすなかで、新たな体験を手にしたからこそ「じつは最初からそこにあるシアワセ」に気がつけた、というものではと。
つまり、
体験による「気付き」こそが「手に入れられた」もので、それがなくては「シアワセへの実感」はおこらない。
のでは。
そう考えています。
チルチルとミチルが、病気の少女をみても、「可愛そう」と思うだけで家の中で寝っ転がってYoutubeばかり見て助けるための冒険に出かけなければ、家の中の鳥は「青い鳥」に変わらなかったのでしょう。たぶん。
「気付き」というのは、話しを聞いてアタマで「そうだよね」という理解では味わえない、感覚による"体験"でしかない。
味わってみたことがない食材について、言葉でいくら説明されても、実際に味わってみなきゃワカラナイ。
なので、シアワセが欲しいならば、まずは自ら何か動きだないと。体験をおこしていかないと。
そうしなければ、仮に「そこにあるかもしれない」ものにだって、気がつけない。
そういった体験が「味わい」として"気づき"のカギになっていく。
そんなふうに考えています。
青くなかった鳥が青に感じられるようになったというのも「気付き」がそうさせた、というメッセージでしょうか。たぶん。
でも、そこでさらに大切なのは、体験がないと"気付き"も起きないかもしれないけれど、だからといって「もっとソレを!」と、欲するがまま行動をすることが「シアワセ」につながるものではない。ということだと思います。
青い鳥では、他人のために勇気を振り絞る体験が、そこにある(だれかのために努力できる自分の成長)というシアワセへの気付きをもたらしてくれた、というメッセージを語ってくれていると思っています。
しかも、過去の思い出や、刹那な楽しみや、未来への可能性だけを求めてばかりでは、「いまそこにあるシアワセ」に気が付けないというメッセージとともに。
さて、我々の青い鳥は、すでにそこにいるとしたら、どのような体験から見えるようになるでしょうか。
それは、今日であう、「有難う」が言える誰かの笑顔からも得られるかもしれません。
まだまだ気がつけてない、「そこにあるシアワセ」もいっぱいあるかもしれません。
日々、精進です。
今日も、お付き合いくださり、有難うございました🙏。
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