「有難う」は、発するほど"こだま"して返ってくるもの
仏教では「回向」というコトバがあります。
回向とは「自分のした善き行いが、誰かの幸せに回り巡りますよう」という、とっても仏教的で慈悲に満ちた考え方です。(自分なりの超意訳です)
なんで、自分のした善き行いを、わざわざ他の誰かの幸せへ巡らせないといけないんでしょうか?
それは、結果的に「自分の幸せ」へと"こだま"していくからでは。そう考えています。
回向は、たまたまですが、「共鳴」や「こだま」を表す英語の"echo(エコー)"に近い発音です。
単なる偶然な語呂合わせですが、自分のした善き行いが、やまびこのように周囲に広がって、誰かの幸せとして回り巡り、結果として、自分の幸せとしても、こだまのように返ってくるという様は、回向もエコー(こだま)も、共通しているのではと思うのです。
ですが、「自分のした善き行い」が、誰かの幸せになって、しかも自分の幸せに返ってくるなんて、ホントでしょうか?
そんなの、宗教が理想として掲げるだけの偽善では?
「善い人」でいたら、まわりの「テイカー」にたかられて、不幸になるだけでは?
僕は「そんなことはないのでは」と考えているのです。
これは仏教だけにとどまらず、他宗教にも普遍的な思想であるばかりか、なんならヒト以外の全ての生命に共通した、40億年の生命進化の結果うまれた、物理現象のような自然なことなのでは。
ちょっと大げさかもしれませんが😅、そう考えています。
このブログでは、その理由を自分なりにではありますが、紐解いてみます。
仏教からみた「自分の善き行いは自分にこだまする」考え
さて、まずは仏教の目線から。
日本の仏教では、宗派により主に読まれる「お経」(=ブッダの教えをまとめた経典)に差があります。
一方、インド、タイ、ミャンマーなど、南〜東南アジアの仏教では、読まれる「お教(経典)」は基本同じです。
(国によってイントネーションなどに違いはありますが文は同じ)。
ですが、日本の各宗派でも、お経を唱えた最後に、(ほぼ)共通して読まれるフレーズがあります。つまり、違う宗派でも同じく重要視されている「教え」が語られている。
それが「回向文です。
その内容は(宗派で若干の差はありますが)、超意訳すると
「(お経を唱えたというこの)善き行為のご利益が、様々な人々や生き物へ回り巡り、幸せになれますよう」といった趣旨です。
「回向は、「回し向ける」こと。
なぜ、お経を読んだ行為が、善き行為で、しかも、自分のした善き行為が、他のヒトや生き物の幸せ回り巡らせる必要があるのでしょうか。
それは、自分にとって、どんなメリットがあるのでしょうか。
お経(=ブッダの教え)を唱える行為は、ブッダの教えを忘れずに紡いでいくための行為でもあり、それが続いているから、2500年もの間、ブッダの教えが現代にも生き残ってくれている。
それにより、人によっては、心おだやかな生き方を手に入れられる。
ですので「お経を唱える」行為は、有り難い教えを語ってくれたブッダや、その教えを2500年にわたって読み紡いでくれた方々への「有難う」を伝える行為でもある。
そして、その有り難い教えを次世代に遺す、「誰かのため」の「善き行為」でもある(功徳を積む行為でもある)。
仏教では、「因果応報」という、「誰かのための善き行為」は、めぐり巡って自身に有り難い行為として返ってくる、悪い事をすれば、痛い目として自分に返ってくる。そういった考え方があります
でも、これは、多くの方に実感できる原理ではないでしょうか。
誰かに善いことをされたら、少しは恩返しをしたく感じるものでしょうし、逆に、イジワルをされたら、相手にイジワルしかえしたくなるものではないでしょうか。
だから、幸せに生きたいなら、回りの人にイジワルするよりも、やさしくしたほうが、自分にもやさしくしてもらえて、愛されるチャンスは増える。幸せになりやすい。
「誰かのために善きこと」は「自分のため」にもなる。
だから、他に善き行為をしましょうと。
それは、広く実感しうる現象だからこそ、読む経典がそれぞれ異なる日本の各宗派において、「回向文」はほぼ共通して、最後に唱えられているのでは。
そう感じております。
「善き行いは自分にこだまする」は普遍的な思想では
「自分が幸せになるためには、他に善き行為をする」という思想は、仏教に限らず、ギリシャ哲学でも、他の主要な宗教でも説かれている教えのようです。
アリストテレスも「人生を通した幸せ」のためには「他に善きことをする」のが大切と説いてます。
※詳しくは下記にまとめております
イエスも「隣人を愛せよ」と説き、イスラム教でも持つ中から喜んで周囲と分かち合う「喜捨」を重要視しています。
なんなら、最新の科学が説くでは
「幸せな人生」に重要なことは「善き人間関係」であり、そのためには「他に善きことをする」のが大切と示しています。
※同じく、詳しくは下記
これは、もはやヒト社会での真理ではと思うのです。
助け合うほうが生き延びやすい生命の真理
この「他に善きことをして助け合う」のが「自分たちによい」原理は、ヒトの社会に限ったことではなく、全生命の共通真理かもしれません。
40億年にわたる生命の進化でも、生き延びる種は、力強い種より、柔軟な協調をできる種であると言われています。
世界的なベストセラー「サピエンス全史」を著したユヴァル・ノア・ハラリ氏も、過去の著作でも最新作でも、その「歴史的事実」を繰り返し主張しています(下記出典)。
「周りの誰かのため」の行為は、結局、自分や、自分の子孫に善き行為となる。
それは、40億年かけて「より生き残りやすい種」として選択され、示されてきたことなのかもしれません。
でも、それは、あくまで、長い時間をかけて、個体/個人ではなく、種全体での「メリット」を考えたときの話じゃないのか?
必ずしも、自分一代の人生では、自分の善き行いが、わかりやすく自分にもどってくるわけではないのでは?
だったら、わざわざ他人のメリットになることをするより、自分のメリットになる行為にダイレクトにエネルギーを注いだほうが得なのでは?
そういった考えもあるかもしれません。
でも、それでも、「そんなことはないのでは」と思うのです。
我々がもつ「感情が"こだま"する」脳の機能
進化の先端にいる我々の脳には、面白いことに、「誰かのために善きことをするほど自分も幸せに感じる」機能が備わっているそうです。
それは、「ミラーニューロン」と呼ばれる機能です。
ミラー = 鏡のように、他人の感情が自身にも"こだま"のように共鳴するような機能だそうです。
イライラしている人を見るとなんだか落ち着かなくなったり、楽しそうでにこやかにしている人を見ると、なんだかホッコリしたり。
そんな体験は多くの方があるのではないでしょうか。
最新の脳科学の研究では、生まれたての赤ちゃんですら、笑っている人の映像をみると笑顔になり、嘆き悲しんでいる人の映像をみると怯えた顔になることが示されてます(下記出典)。
これは、40億年にわたる生命の進化のお陰で我々が「本能」として与えられた機能なのではないでしょうか。
自分が生き延びたいなら、集団の他の誰かと協調しあったほうが確率が高まる。だから、他の誰かにとってプラスとなる行為をすることが、自身にとってプラスに感じるような機能が進化の過程で育っていった。
それは、自分の世代だけでは実感しにくい「種としてのメリット」でしかないかもしれないけれど、それは個体レベルの機能としても進化していったのが、ヒトの持つミラーニューロンなのでは。
それにより、我々ヒトは、誰かが喜ぶ姿を見るだけで、自分にも喜びが沸き起こるようになった。
それは、他の誰かにとってプラスとなる行為が、結果自分や回りの集団の「生き延びやすさ」や「快適さ」につながる行為だから。
だから、誰かが喜ぶ行為をするのは、「他人のため」だけではなく、自分にも喜びを感じさせる「自分のため」にもなるのでは。
そう感じています。
競争社会で「他者のため」で生きていけるのか?
「とはいえ、それって理想論なのでは?」そんな声もあるかもしれません。
現代の社会では、「個人の権利」が尊重されるなかで、他者へのメリットより、まず自分のメリットを重視する考えが、よりメジャーになってきているかもしれません。
それは国家単位でも同様で、アメリカの大統領選挙でも、トランプさんは「自国優先」を謳って支持されました。
そして、"グローバリズム"が進み、競争相手もグローバルに増えるなかで、勝ち残るための競争はより熾烈になり、「自分たち」の生き残りのためには、権利やシェアを「我こそは」と主張し奪い合うのが善しとされる風潮が広がっているのでは。
他者と支え合い助け合うより、まず自分たちが勝ち残り拡大することを善しとする。
将来の地球環境が悪くなっても、まず自分たちのメリットを優先する。
もしかしたら、現代は、「自分らこそ優先」「奪うが勝ち」な風潮が広がる中で、その圧力で、多くの人も急き立てられるように「もっと」と競争を強いられて、余裕が感じにくい時代なのかもしれません。
そんな中で「他に善き行い」ばかりでは、持っていかれるばかりなのかもしれない。
そんな不安は生まれやすいかもしれない。
一方で、そんな、行き過ぎた「我の主張の競争」に違和感を感じている人も生まれてきているのでは。
実際に、「自分こそ」の肘の張り合いの先で起きている、SNS上での非難合戦や、それによる社会の分断や、さらには国家の分断と衝突としての戦争は、より目につきやすくなっているのではないでしょうか。
そんな中で、いくら自分にもシアワセが"こだま"してくるかもしれないといっても。「他者のための行い」など可能なのでしょうか。
「有難う」は何も奪われない「他のための行い」では
じつは「有難う」の挨拶こそ、自分の心しだいで、勇気しだいで、
いつでも、どんなときでもできる「他者のための行い」なのでは、と思うのです。
たかが「有難う」、でしょうか?
多くの人は、誰かに「有難う」と感謝されることに喜びを感じるものではないでしょうか。
そして、「有難う」と感謝されたら、その相手に好意が生まれ、その人に何か恩返ししたくなるものでは。
だったら、まずは、自分から「有難う」を言う機会を増やしてみる。
そうするほどに、回りから好意をもたれるかもしれません。
少なくとも、「有難う」と発するだけなら、何も奪われるものはないのでは。
そして「有難う」と発するだけでも、人によっては「善き行い」として感謝してもらえることもあるのでは。
やがて、それを恩に感じて、善き友になってくれたり、自分が苦しい時に支えてくれる人となるかもしれない。
それは、自分の発する「有難う」が、"こだま"のように、他の人にシアワセをもたらし、自分のシアワセにも回り巡っていくように。
まさに仏教でも重視される「回向」のように。
自分がシアワセになりたいなら、まずは今日からでも始めてみれるかもしれません。
小さな機会でも「有難う」と、ささやかな挨拶を発してみる。
ゴハンを作ってもらったとき。お店で商品を受取るとき。バスやタクシーを降りるとき。トイレ掃除や交通整理の方に出会ったとき。
最初は小さな「有難う」でも、発するほどに、それが大きく共鳴していき、いずれ自分が「有り難いなぁ」と大きくシアワセを感じるものに、"こだま"し育ってていくかもしれません。
競争が熾烈で、奪い合いや権利の主張のしあいが目立つ時代だからこそ、
「有難う」を発していくのが大切では。
そんな地道な一人ひとりの「有難う」の挨拶が重なるだけでも、回り巡って、"こだま"が共鳴し、世界が少しだけ、互いにやさしくなったり、助け合ったり、よき自然環境を遺し次世代に思いやりがうまれたり、そんな未来につながるかもしれません。
そう願い、祈りつつ。
まずは今日の自分ができるところから、実践していきます。
最後までお付き合いくださり、「有難うございます!」。