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誰しも言葉にならない想いを抱えて苦しんでいる

生きるというのは、望むあり方と、そうでない苦しさの葛藤に向き合うプロセス。

どんな人にも、その人なりの「こうありたい」希望は生まれるもので、でも思う通りにいかないことは起きるもの。

だって、必ず老いて朽ちる事実は避けようがないのだから。
自分だけではなく、大切な人や物事もだし。

ポジティブで、自信に溢れている人ほど、ときに本人の自覚がない状態で、より高い「ありたい自分」と現状の自分とのギャップの大きさに苦しみ、でも、その「内なるこころの声」にフタをして進もうとするがゆえに、フタを吹き飛ばすように、自分を力強く前に突き進もうとしがちなもの。
自身の目標に荒々しく邁進するなどで。

これは、一見「ネガティブ」な人にも、そのままあてはまるもの。

ネガティブで、自信を失っている人ほど、ときに本人の自覚がない状態で、早く「ありたい自分」へ少しでも近づきたい気持ちの大きさに苦しみ、でも、その「内なるこころの声」にフタを破る勇気が生まれないゆえに、フタを吹き飛ばすように、自分を力強く周りに押し出そうとしがちなもの。
周囲への批判に声を荒らげるなどで。

どちらも、それぞれ、苦しい。

その苦しさから解放されるには、まずは「内なるこころの声」に、まっすぐに「こころを開いて」聞く勇気がもてるかどうか。

これは、なかなか苦しい。

だって、その声は、ときに自分に批判的にも聞こえたりもする。
「オマエは、オマエになれてない」と。

僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない。

尾崎豊 「僕が僕であるために」

僕が浪人時代にハマって、大好きだった、そして、今も好きなアーティスト尾崎豊は、常に自身との葛藤をまっすぐに、恐れることなくさらけ出して、ときに美しく、愛をもって歌い上げようとした方だったのだと感じています。

その、僕らが聴くことができる「声」は、誰しももっている言葉にならない葛藤に苦しむ「内なる声」に「大丈夫だよ」と言ってくれているように、僕には感じます。

10代から一斉を風靡するアーティストとしてもてはやされるだけの「栄光」を手にするような「天才」(と呼ばれる)人だって苦しいものなのだから、だからみんな大丈夫だよ、と。

仏教が生まれたインドで、700年も前から滅びかけた仏教の復興を率いることになり、いまや1.5億人以上と言われる信者の頂点に立つ(と呼ばれる)佐々井秀嶺上人は、90歳になった今でも「自身との闘争だ!」と自分自身を鼓舞しつつ、差別や格差で苦しむ人々を奮い立たせています。
でも、「オレだって、心折れることだってあるんだ!」と笑いながら、まっすぐに語ってくださいます。

その姿は、尾崎豊とは違ったかたちで、「だからみんな大丈夫だよ」と言ってくれているように、僕には感じます。

それぞれの「僕が僕であるため」への闘争がある。
それへ向かっていくエネルギーは、外へ向けるのではなく、内なる自分へと向けていく。

だって「僕が僕である」かどうかは、内からの声なのだから。

そう、精進してまいりたいとおもいます。

今日もお付き合い頂き、有難うございます。

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