「待つ」こと
「待つ」こととランニング
待つことは嫌いだ。なんだか時間がもったいない気がする。この間に他のことができるんじゃないか。もっとできたんじゃないかという気持ちになる。
ただ、陸上競技はある意味で「待つ」競技だ。
地面に圧力をかけて、その反発を利用して前方向へ身体を運ぶ。そのために大事なのは「タイミング」と「位置」だと思う。
まず、反発が返ってくるタイミングを知らなければならない。練習の中で試行錯誤しながら、反発を感じられるようにタイミングを計って受け止めなければ推進力は得られない。
また、反発が返ってくる際に、体がどの位置にあるのかもかなり重要である。よく足先から頭が一直線になるように姿勢をまっすぐとれば、力が伝わると教えられた。
もちろんそうなのだが、ただ一直線ではなく、しっかり地面を押せる位置、反発を受け止めて推進していける位置というのは、ただ見かけ上一直線になっていればよいというものでもない気がする。
ここのあたりはまだ言語化できていないが、感覚的には掴みつつある。
要は、自分が地面に伝えた力に対して返ってくる反作用を「待つ」作業が必要になってくるのである。体の位置は「待つ」ための態勢なのだ。
待てないと反発を受けられず、ただ掻くような走りになったり、力感の割に進まない走りになることもある。
ランニングは、体の複雑な動きが組み合わさって成り立っているが、意識することは複雑すぎるとかえってぎこちなく動いてしまう。
技術練習はシンプルに。地面をしっかり踏むこと。タイミングを計ること。正しい位置に体を置いて、「待つ」こと。これに尽きるのではないかと思う。
「待つ」ことと能動性
「待つ」ことは嫌いだ。受け身のように感じるから。
自分のコントロール下にないことをすると人間はストレスを感じる。自分で動かしたい。
生き方を変えたくて、現状から動く決断をした2年前。間違いなく能動的に歩んだと思う。もしかしたら自分の人生で、純粋意思100%で選択したのは初めてかもしれない。
高校進学も大学進学も就職でさえ、本当に自分の強い意志があったかと問われれば、微妙なところだ。その時なりに自分で考えたとは思うが、周囲の環境や、評価、期待など、影響される要因はたくさんあった。
「生き方を変える決断」だって大袈裟に言ってはいるが、いろんな影響は受けている。ただ、ある意味で「どうなってもいいや」「どう思われてもいいや」と自分の意志と向き合えたとは思う。
能動的になるということは、納得感につながる。うまくいけばもちろん達成感もあるだろうし、うまくいかなくても自分の責任と諦めがつく。
その点「待つ」ということは苦しい。「待つ」こと以外できることがないからである。
ただ、時に「待つ」ことにはいろんな期待が込められる。願いや想いが込められる。
「人事を尽くして天命を待つ」とはまさにそのことで、「待つ」までの過程に能動的にできることはすべてやり尽くすという姿勢だ。
つまり、「待つ」行為自体は受け身でしかなくとも、能動的に「待つ」ことは可能であり、それを選択することが能動性・主体性なのだ。
誰かがどうにかしてくれるのを「待つ」なんて自分にはできない。それはあまりにも苦しい。
今、ランニングイベントやマラソン大会の開催を「待つ」状態ではあるが、せっかくなら能動的に待とうではないか。この間に人事を尽くしてやろうじゃないか。
ただ待つだけは嫌いだ。
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