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大丈夫神話

「若いんだから大丈夫だよ」
「何とかなるって、大丈夫大丈夫。まだまだ若いんだし」

生きているとそこで生活をしているだけで色んな言葉を頂戴するものだが、働いている時に言われがちなのはこの言葉かもしれない。因みにこの場合の若さとはその職場の中ではという意味だ。平成初期生まれのわたくし、そこそこいい歳である。それでも言われる上記のフレーズ。何かにつけ言われる。サビメロかなんかですか?ってくらい言われる。サビメロよりマイメロ派なんですけど。

この言葉を言いがちな大人も、もしかして大人になるまでの過程で同じフレーズを何度も何度も聞かされ続けてきたのかもしれない。下味の感覚で若ささえあれば大丈夫の調味液に浸され続けたのかもしれない。それを考えた時、気の毒だと思った。大丈夫じゃないことも山のようにあっただろうに。

「若いんだから大丈夫だって」を飲み込み続けると、今度は「若いのに何を言ってんの」だとか言い出す人も居る。段階踏んで威力上げてくるタイプの攻撃技?
若かろうが生きてる人間なんだからそれぞれに主張があんのが当たり前だろうがと思う。
だけど、心が弱っていたり身体が疲れている時は判断力も落ちて、長年若いから大丈夫を飲み込み続けて来てしまったというのもあって、そんなタイミングで言われてしまったらば「大丈夫になれない自分が悪いのかも」なんて思いに頭から落下してしまったりする。
そうなってしまったらなかなか抜け出せない。なんたって頭から落ちてんだからね、こちとら。

若いんだから大丈夫もそうだけど、生活していると◯◯だから大丈夫と本人ではない他人がジャッジしているのをよく見掛ける。
金持ちだから大丈夫、男/女だから大丈夫、いい歳なんだから大丈夫、独身だから大丈夫、既婚だから大丈夫、バイトだから大丈夫。
そうやって言う人、大抵大丈夫判定をくだした人とちゃんと会話したことがない。本当に本人がそう言った?大丈夫って言ってた?
前の職場で周りから常に大丈夫の太鼓判押されてきた人は、昼休憩の時みんなの輪の中で笑いながらその話を聞くだけで、昼ご飯を食べてなかった。目の下には隈があった。聞くとここ最近食欲はないし、夜眠れないと言う。
食べることが出来ない、眠ることが出来ない。何処が大丈夫だったんだろう。頑張り屋のその人は、ある日突然に職場に来なくなった。前触れはあった。ずっと、確かに、そこにあった。
そんなことが起きてしまったって、いつでも陽気且つ一方的に大丈夫を乱射し続けた人達は「やれる人だと思ってたんだけどね〜」と口々に言った。随分勝手な人達だと思った。

大丈夫って言葉は魔法の言葉にも、呪いの言葉にもなり得る。

使う人間、使われる人間との関係性によって効果は変わる。さながらRPG。
そこに信頼感があれば大丈夫かもしれないと思えるし、大丈夫かどうかは分からないけどそう言ってもらえるなら聞きながらやれるだけのことはやってみようかなと思える。
そこに信頼感が無ければそれってあなたの感想ですよねとばかりに心のシャッターが一気に閉められる。
偶に信頼関係が無くても、ここで頑張らなければと24時間シャッター開けて何でもがむしゃらにこなそうとする人が居て、そういう人は狙われやすい。
大丈夫だからやっといて、うんうん大丈夫なんじゃない?これもよろしく。大丈夫大丈夫適当でいいから後はあれもやっておいて。こなしているうちにどんどん大丈夫とは程遠くなっていく。
心配で、不安で、破裂しそうになって大丈夫と言い続けてくれた周りに本当に自分は大丈夫なんだろうかと打ち明けた時。言われるのは大抵「大丈夫だって、若いんだから。やれるって」。

な〜んだ、そうなんだ!大丈夫なんだ〜!ヒュ〜ウ!!これで一安心!!

とは、ならんわな。
ならんわな、絶対。

大丈夫かどうか不安な時は、自分の半径1m範囲を見るようにしている。自分の抱えている仕事の量だとか、次にやらなきゃいけないことだとか。
全体を凝視し過ぎてはいけない。何で自分ばかりがという思いが入った鍋がぐらぐらと煮詰まって吹きこぼれたら最後、大丈夫神話は終わりを告げるから。
心が折れるという表現を最初に思いついた人は大したもんだ。ちゃんと折れる音が聞こえる。実際私は30年と少し生きてきた人生の中で、何度かその音を聞いた。鈍くて重い音。

この記事は、ある日突然大丈夫神話が終わってしまった人が多いから書いた。
歳も、性別も、立場も、何も関係ない。がむしゃらに頑張ってそこにあるはずの大丈夫を信じたあなたに宛てる。

結局何も大丈夫なんかじゃないんじゃないかと思う時程、虚しいものはない。打ちのめされるものもない。
鏡に映る自分の肌の荒れ具合や、髪のボサボサ具合や、スタイルに絶望する人だって居るのかも。無意識に皮膚を爪を立てて引っ掻いてしまう人、髪の毛を抜いてしまう人。色んな人が居る。さぁこっちにおいで、話をしよう。

頑張れと言われたから頑張ったのに、頑張り過ぎだよ休んだほうがいいよと言われたり。頑張れと言われるから頑張るけどひとつ頑張るとふたつ駄目で、ふたつを取り返そうとするとよっつ駄目になったり。
あれに似てると思う。屈んだら胸ポケットからペンが落ちて、あらあらと思って拾おうとしたらテーブルにぶつかってテーブルからも物が落ちて、おーやおやとテーブルの下に転がったそれを拾おうとして顔上げたらテーブルに頭ぶつけて、よろめいたら棚にぶつかって棚のものさえも落ちてくる時。俺という人生で最悪のコンボすなと。

何はともあれ
やってらんないよなぁ!そんなのなぁ!!どいつもこいつもその場のノリで適当ぬかしよってなぁ!!

多分、こういうノリの人間も大事。煮詰まった時こそ、もう精一杯やったんだけど何もかも吹きこぼれてここには何も残らなくなりそうなんだという時こそ。
何でもかんでも大丈夫にされるより、これに関しては誠に遺憾過ぎて中庭の草全部枯れますわってことは一緒に怒ってくれたり取り組んでくれたり。
あれもこれも聞く前からオール大丈夫にされるより、一旦適宜相槌のみして頂いてこちら側の心配や不安を聞いてくれたり。
このご時世、100円均一だって100円で均一されてないんだからさ。あれもこれも大丈夫は無理があるってなもんでね。そこに大丈夫が無ければ無いですねで終わってしまっては堪らない。

私自身、吹けば飛ぶような軽く何の信憑性も無い大丈夫より、大丈夫というのも根拠がありまして!!それはぁ!!と熱弁されるより、「分かるわ」と一言言ってもらえた方がずっと気が楽になる。個人差はあるんだろうけれど。
ただ、この「分かるわ」の後に所属する場所やそこで一緒にいる人に対してのサゲ発言続くと気分もsage⤵︎⤵︎となり、心のギャルがそっぽ向いてしまうので匙加減が難しい。
これは多分、不安や心配を分かってもらえたらいいのであって、悪口に加担したいわけじゃないって思いがはたらくからだと思う。
分かるというならシンプルに「分かる」だけ欲しかった、的な。餃子が食べたいのであって定食にされると重いし多いしそうじゃない、的な。

早い話が、これだけ常に色んな考えや気持ちにこれまで生きてきた過程やらその日の体調やら睡眠時間やら何やらが洪水のように渦巻く人間ひとりがですよ、そう簡単に大丈夫になって堪るかって話で。
そしてその渦の流れが激しくなればなる程必死にもがくのに、大丈夫大丈夫〜やれるっしょ〜と浮き輪一個投げ込まれたところで、あぁ全然真剣に考えてくれていないな。雑に扱われてんだってなる。それに気付いた時が、我に返った時が、一番しんどい気がする。

だからってわけじゃあないけどさ、深い意味は無いんだけどさ。話をしよう。

最近、どう?ごはん食べてる?焼きそばばかりもいいけれど、偶にはカット野菜も買って一緒に炒めるなりして食べよう。
最近、眠れてる?寝付けないから早くに布団に入るのに、結局寝付けなくてなんにもしてない時間+雀の涙ほどの睡眠時間になってない?身体しんどいし、寝ようとすればするほど眠れないのストレスだよね。分かるわ。
最近、面白いことあった?良いことはあった?何か感動する映画はあった?ネトフリってなんでもあるけど、なんでもありすぎて逆に観るもんないってならん?アレ何?
最近、最後に湯船に浸かったのはいつ?言うて風呂は疲れる。分かる。しかし風呂に浸からないと取れない疲れもある。ここが悩ましい。15時くらいに風呂に入ると無敵の気分になる時あるんだけど、今度試してみない?

何で突然そんなことを聞いてくるんだ。そんな風に思うかもしれない。
思い返してみて欲しい、誰かに「最近」を聞かれたのはいつ?
最近を聞かれると、必然的に最近の自分について考えるきっかけになる。最近はこうでさ、最近はあぁでさ。話しているうちにそういえばが増える。そういえばこんなこともあってさ、あんなこともあってさ。
話しているうちに「それって、大丈夫なの?身体はつらくないの?」と聞かれることがある。その時に最早口癖になりつつある大丈夫を答えようとして、「あまり大丈夫じゃないかも」が出たりする。出したところでどうにもならないと分かっていながらそれが出た時、限界に気付く時もある。

最初の方で大丈夫は魔法にも呪いにもなると言ったけど、私の中で「最近、どう?」こそが魔法。

大丈夫にしようとせず、大丈夫じゃないことに落胆もせず、ただ今を気に掛けてくれる人が使う言葉。
ある程度仲良くないと最初は答えてもらえないけど、次第にぽつぽつ教えてくれるようになる。話してくれるようにもなる。秘技最近どうでしょう。
誰かに言ってもらうのもだし、自分で自分に聞いてみるのもいい。
なるべく晴れている日、夜になる前に手書きでもスマホのメモにでもいいから最近どう?と自分に話題を振る。自分相手の方が案外素直に話せるのかもしれない。
最近肌が荒れててさ、最近食生活が偏っててさ、最近育児に精一杯で自分が何なのか分からなくなっててさ。自分相手だからこそ打ち明けてきたことに、自分だからこそ否定してはいけない。無闇矢鱈に大丈夫にしてもいけない。

取り敢えず一旦カッスカスになるまで吐き出して、そこから返事を考える。自分が掛けられたい言葉、受けたい扱い、助けて欲しかったこと、しないでもらいたかったこと。
こうだったんだよね、ああだったんだよね。あの時あなたは仕方なくそうしたけれど、本当は内心こうだったから今になっても偶に思い出して苦しくなるんだね。
子供の頃、砂利道で転んだことはないだろうか。派手に転んで、砂利だから膝やついた手が捲れるみたいに傷になって。ズキズキ痛くて、血が出てびっくりして。頭や顔や耳までも熱くなって、目の淵にどんどん水分が溜まって見える景色が滲んだ。
子供の頃なら、周りの大人が助けてくれたかもしれない。消毒をして、絆創膏を貼って、痛いのが飛んでいくおまじないさえもしてくれたのかも。
でも、大人になったらされる側ではなくする側になる。転んだら自分で立たなきゃいけないし、痛くても気まずいから笑わなきゃいけないし、血が出ていたら自分で消毒なり絆創膏なり買って処置をしなくちゃ。
人によっては血さえ出てなければ何にもしないかも。大人になったって、痛い時はちゃんと痛いのに。

書き出すことは、転び方とその助け方の練習なのかもしれない。

こんな風に転んだ。傷はどんな具合で、深さで、今も痛むのか。それとも忙しい時は気にならないけど休みの日や夜眠る前に痛むのか。
転んだ時に、しかも痛みがある時に、誤魔化して笑うのが大人なのかも。
痛みがあってもその場では何でもないふりをして、次の日も痛かったら湿布を貼ってみたり、こっそり病院に行ってみんなの前ではへらへらしているのが。
だって、そうしていた方が気まずくないから。大袈裟なことにならないから。過剰に心配されて目立ちたくもなければ、適当にその場しのぎで大丈夫でしょ余裕でしょ早く立ってやることやればと冷たくもされたくもない。

でも、そうなのかな。本当にそうだった?本当は、どうだったんだっけ。
書き出すのは、そのどうだっけの部分を自分に聞くことでもある。
なんで書き出すのを推すかって、大人って大人に話すのが下手。別に、本当に仲の良いなんでも話せる友達が居るってなればまた話は変わってくるけど。それでもなんでも話せるからこそ偶に会った時くらいは笑えて明るい話をってなる人も多いと思う。
だからこそ、聞き手も話し手も自分しかいない空間が必要。そもそも自分でもよく分かってないことを人に話すのって難しいから。
子供の頃、転んだらどうしてもらってた?どうして欲しかった?言わんこっっちゃない走るからだよと怒ったり呆れられたりするより、どうしてもらいたかった?優しく起こしてほしかった?砂や汚れを優しく払い落として、痛かったねびっくりしたねと言ってほしかった?
それらは恐らく大人になった今の自分にも通用する。

仕事で失敗した。ほらね、言ったでしょ。何でもかんでも手をつけるからだよ、出来ないと思ってた。
そう言われるより、失敗してしまったんだね。頑張り過ぎたのかも。そういえば最近仕事に追われてばかりで、疲れて、仕事以外のことは出来ないし夜も眠れないし体調が悪かった。本当は家に帰ったら仕事のことは考えたくないし、ちゃんとご飯食べたいし、日付変わる前には眠りたかったんだった。

子供をきつく叱り過ぎた。やっぱりね、最初はやる気が燃えていたけど結局理想は理想だしあなたには無理だったんだよ。
そう言われるより、叱り過ぎちゃったんだ。何であんなにカッとなっちゃったんだろう。親だからしっかりしなくちゃと思う反面、親じゃない自分が何処に行ってしまったのか分からなくなる。どうしたらいいんだろう。子供のことは叱るし褒めもするけど、親としての私も親としてじゃない私のことも誰にも褒めてもらえない。いっぱいいっぱいなのに、当たり前みたいに増えるやるとにいっぱいいっぱいになって破裂しちゃったのかな。

例え自分相手であっても、出来ないと思ってたと言われれば腹が立つ。そうなると思ってた、あ〜あ期待してたのにがっがりだよと落胆されれば思っていたよりずっと深く鋭く傷が付く。

そうだったんだねと身体を起こしてやって、そんなことがあったんだねと服や傷から汚れを落としてやって、それはしんどかったねと撫でて、きっとこういうことだねとある程度纏まって落ち着くまで傍に居る。自分相手でもそれは出来るし、出来るようになると人にも出来るようになる可能性もある。

偶にでいいから思い出して欲しいんだけど、人間なんてほとんど水分で出来てる脆い生命体だから。そんな簡単に大丈夫にはなれないし、なれたとしても長続きはしないし、薄らほんのり大丈夫じゃない時間の方が人生において圧倒的に多いんだと思う。なんたってほぼ水だもんで。
分かりきった上で、それでも大丈夫で在りたいのも人間。何を隠そうほぼ水だから、そこを何とか大丈夫で在ろうとするわけだ。涙ぐましい生存本能じゃないか。

かと言って、今までの人生もこれからの人生だって恐らく大丈夫のターンは圧倒的に少ないであろう私が、絶対的大丈夫を求める方に渡せる言葉というものはあまりにも少ない。
だけど、今この瞬間ほんのちょこっとだけ大丈夫になりたい人には、何か渡せるのかもしれない。私も似たようなもんだから。

そこにしゃがんで、手の届く範囲内。手の届く範囲内のことがやれたなら、時が来ればまだやれる。
その時が来るまでそこに落ちてたゴミを拾ってみたり、割れてそのままにしてた爪を整えてみたり、枝毛を切ってみたり。
一気にやるとすぐにやることが無くなるので、やることのちょい残しがおすすめ。動いてるように見せかけつつ、やってるように騙し討ちしつつ、その時を待て。
人は簡単に大丈夫になれたような気になって、その実全然大丈夫ではなかったことに気付いて沈み込んだりするものだから。

下手なりに上手く、不器用なりにいい感じに見えるように、しかしその実そうでもない毎日をそれなりに見えるように捏ねて成形して生きている。大丈夫神話が終わろうとも人生は続く。どうせ続けるなら何に関してもちっとも大丈夫になれなくたって、100点中58点くらいは狙っていきたいじゃない。

もう今後の人生何一つ大丈夫になれる気がしなくたって、案外次に人生に出題される問題は得意分野で5点配点かも。そんな具合に生きるし、生きていこうねって。そういう話をこうして長々書いたとさ。私と、あなたと、よしんばみんなで大丈夫になりたいがばかりにね。


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