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いつか、青果売り場で売られる梨を見て泣く日がやって来る

実家で暮らす犬の好物は沢山あるが、その中でも一等好きなのが梨だ。林檎ではなく、梨だ。

林檎であれば一年を通してスーパーなどで購入出来るものの、季節の果物の梨となればそうもいかない。それに、林檎と比べれば梨は高価な果物でもある。そんな人間の懐事情もあって、可能であれば、ほんと出来る範囲内で構わないからこちらも好物として頂いて…といった具合にカットした林檎の提供を試みたこともあったのだが、ふんっと嘲笑うように鼻息を掛けられて終わった。
普段はベロを出して呑気な面構えの穏やかな犬として暮らしているものの、好物に対しては一切の妥協を許さぬ生粋の食いしん坊であった。

赤ちゃんから大人へ、大人から老犬へと順調に成長していった実家の犬は、現在人間で言えば90歳くらいの超シニアドッグとなった。

のんびりおっとりした赤ちゃんがそのまま老犬になったのがうちの犬である。

変化と言えば加齢による歯槽膿漏で抜歯した結果、ベロを押さえていた歯も抜かれたようで常にベロが出る仕様になったことくらいだろうか。
偶に格納されていることもあるが、くしゃみしたりぶるぶるっと首を振るとベロが全部出て来るので、基本アウトドア派のベロのようだ。
いつぞや「そこをキャンプ地とするんですか?」と聞いてみたが、「は?」と言わんばかりの顔をしていた。そりゃあそうだよ。

数年前までは老いるは老いたけど元気だし、大きな病気もしてないし、何より食欲旺盛なのでまだまだ生きるだろうと思っていた。私の生活に、人生に、その隣に横付けするように犬が尻なり鼻なりくっつけて居てくれるんだと思っていた。

でも、最近の犬の様子を見ていると、もしかしたらそんなことないんじゃないかと思えて来て、心に穴が開きそうになる。考えたくも認めたくもないのに、気が付けば犬のことばかり考える。これが恋というものなのかしら。まぁ、恋も犬も同じ2文字だし。

最近の犬は体調が悪い。食欲も安定せず、咳が出るようになった。病院に通い、検査をして、注射や投薬での治療を続けているがそもそも何故咳が出るのかその原因が分からない。仮に分かったとしても高齢で治療の手段が少ないのだそうだ。先生には本当に良くしてもらっていて、感謝しかない。
実家で犬と暮らす両親も「とにかくこの子が苦しまず、辛い思いをせず、最後までのびのび生きてくれたら」という考えで、私も同意している。仮に治療法が見つかったとして、もう少しだけ長生きする代わりに苦しみや痛みが伴うのであればその手段は選ばないだろう。私の大切な宝物はもう、そういう段階なのだ。分かっている。

今日、母がスーパーで初物の梨を買ってきた。1玉500円の梨を、高齢の犬のために。

当然だがこの梨は犬のものであり、人間の口に入ることはない。運良く食べることが出来たとしても、細かく刻んだ梨の端っこの部分である。あとの全ては犬のものだ。
犬や動物と暮らしたことのない人には信じられないことかもしれないが、こういう現象がまぁまぁ起きる。
実例として実家に完備された空気清浄機やクーラーは全て犬基準で起動されるし、それを裏付けるようにクーラーも空気清浄機も犬が暮らしの拠点とする2階リビングにしか設置されていない。あの家の全ての権利と愛は犬が所有しているのだろう。人間が差し出すように、犬もまた私達家族にいつでも愛をくれた。

高齢の犬が食べやすいように細かく刻まれた梨はHAPPY DOGとでかでかと書かれた餌鉢に入れられ、犬に差し出された。もう目もあまり見えず、鼻も利かず、耳も遠くなった犬が残った全ての力をフル活用して餌鉢に辿り着く。ふんふんと匂いを嗅ぎ、すぐに食べ始めた。ここ最近どんなに好物であっても気分でなければそっぽを向く始末だったのに、やはり梨。初物の梨。これが1玉500円の力である。
細かく刻まれたお陰で食感も何もあったものではないが、思うに犬は梨の瑞々しさを愛しているので問題ないようだ。梨を提供した母は犬が美味しそうに梨を食べる様を嬉しそうに見ながら台所でもずくと納豆ご飯を食べていた。なんて慎ましい女なんだろう。

梨を食べる犬を見ながら、色んなことを思い出していた。

犬の梨好きは、小さい頃からだった。
食卓に並ぶ梨は間違えて出されただけで本当は自分のものと考え、逞しい脚の筋力を駆使して小型犬とは思えぬ強靭なバネで飛び、テーブルから梨を取り返そうとしたりした。
人間が梨を食べているのを見ると大層驚いた顔をして足元までやって来て、あなた方は自分しか食べられないものが数多とあるだろうにどうして犬の梨を奪ったりするんですか?とでも言いたげな悲痛な表情で見上げながら人間の膝を叩いて猛抗議してくる犬でもあった。既に母から梨を貰っていても、である。
何ならまだ口の中に梨の欠片が残っているんじゃないのかというレベルでも、この犬がまだ一口も食べていないその梨を何故あなたが?と全身で訴えて来る。小刻みに震えながら情に訴えさえする。梨に関しては策士であった。その瞬間だけ、犬は諸葛孔明となった。過言である。

そんな可笑しくて、賑やかで、ほんのり面倒臭くて、だけど愛おしい生活を経て犬は老いた。

今は人間が梨を食べていたって気付かない。食卓に堂々並べたって見えないし、シャリッと音をたてて齧ったってその音は犬に届かない。だから別に堂々食べたっていいのに、黙ってりゃ気付かれないのに、母は犬にたべさせてやりたい一心でいつも梨を探している。
梨のシーズンでなくても犬が喜ぶから、梨なら食べてくれるかもしれないからネットを駆使してまで探す。見つけた梨がどれだけ高価でも、自分達の食費を削ってまで買って犬に食べさせる。

他人から見れば奇行に見えても、私にすればその行動は愛以外のなにものでもなかった。決して掛ける金額の大きさがという意味ではなくて、掛ける時間が、少しでも犬が好きなものを美味しいと思うものを食べて欲しいと想う気持ちが、その他諸々の犬に向ける全てのことを取りまとめた時、その総称こそが愛だと思った。

梨のように、犬と生きた時間の中で生活に違和感なく馴染んだものが沢山ある。噛むと鳴る笛入りのおもちゃ、ささみが巻かれた骨、歯磨きガム、ペット用かつおぶし、茹でささみ。
農家の家で育ち、ベジタリアンの節がある犬故に野菜も好きだ。アスパラ、ブロッコリー、とうもろこし、スナップえんどう。新鮮で茹でたては犬の特権で、茹でているうちから匂いに誘われて小躍りするように台所にやって来ては母に纏わり付いた。さながらダンスホールだ。
知らぬ間に私の人生において、犬に結びつくものばかりが増えていた。他の人からすればただの野菜でも、物でも、素通りしてしまうようなことでさえ私にとってはそこに犬が居る。ベロを出したとぼけた顔の気の良い犬が、いつでもそこで伏せして笑っている。

今日、梨を少しだけ食べてベッドに帰って行った犬を見た時。その途中おぼつかない足取りで躓いてよろけたのを見た時。何となくだけど、多分なんだけど、来年の初物の梨の出る頃に犬は居ないかもしれないと思ってしまった。
勿論全然居てくれるかもしれないし、そうであって欲しいんだけど、居ない可能性を考えた瞬間から心の中に色の濃いインクをこぼしたみたいに不安が広がって取れなくなった。拭いても拭いても余計伸びたり広がるばかりで諦めた。犬のことをではなく、犬に対しての全部を取り除こうとするのを諦めた。

だって犬、生きてるし。少ししか食べなくても今日も全然梨好きだし。多分、私と梨なら?って聞いたら一応礼儀として私を一瞥したあとスタスタ梨の方に行くだろうなってくらいには梨好き健在だし。
だから、まぁ、いいかなって。大丈夫ではないけど、いいかなって。いいかなってことにしておかないとどうにかなりそうだから、いいかなって。そう思わないと狂いそうだ。

でも、今日は多分、夜眠るまでの間にあと何回かいつか青果売り場で梨を見る度に思い出が込み上げて泣く自分を想像して泣くんだと思う。辛気臭ぇ未来予想図もあったもんだなと笑って欲しい。そうしたら少しは救われると思うから。知らんけど。

老犬という可愛さと、バラエティに富んだ心配と、時にはありとあらゆる手間と面倒臭さを発生させる存在を大事に捏ねて捏ねていい感じに形を整えた時。そこに出来上がるものもまた、私は愛と呼びたい。


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