あの日の質問に今なら答えられる気がする
まだ以前の施設に在籍していた時、夜勤中に届いた質問がある。それは私と同業の介護職の女の子からで、最近資格を取得して施設で働き始めたらしい。全文は思い出せないが、書き出しが「暗く、出口が見つかりそうもない、質問とも呼べないかもしれない質問でごめんなさい」だったのは覚えている。何故なら日記にメモを取っているからだ。いつか、いつの日にか、この子の質問に答えようと思ってメモを取っていた。うっかりあの日から数年経ての返答になるのだが、もう手遅れだろうか。間に合っただろうか。分からないままにこれを書いている。曖昧に答えることはしたくなかったという言い訳を添えて、数年越しの文通となればこれ幸いである。
傷付き葛藤していたあなたへ
ご機嫌よう、お元気してますか?まだこの業界に居るのでしょうか、居ないのでしょうか。何処に属していてもいなくてもいいのです、あなたという人間一人が元気に何処かで暮らしているのなら。
私がこの手紙を宛てるのは令和2年3月10日に私へ質問をくれたあなただし、今傷ついて葛藤の最中にいるあなたに対してでもあります。どうぞよろしくね。
あの日、正しくは3月10日23時頃のあなたはとても悩んでいました。こんな正体不明の星の数ほどいるSNSのユーザーに悩みを打ち明けてくるくらいには。返事がべらぼうに遅くなってごめんなさいね。未だに私をフォローしてくださっているのか、そもそもTwitterという名前と存在が消失したりとこの数年の間に色々ありましたからアカウントさえもまだ存在するのかどうか危ういのですが、私なりにあなたへの確実な答えを見つけたのでお返事したいと思います。
出会った日、あなたは自身が働く職場環境の酷さに悩んで、傷付いていました。失礼だったら申し訳ないのですが、その姿や文体にまるで小さな犬が悲しげに鼻を鳴らしながら近づいて来たような印象を受けたのを覚えています。あなたはあなた自身にされたことや言われたことに傷ついているのではなく、働く場所で守らなければいけない利用者さんへの扱いに傷ついていましたね。
こんなことをするために学校に通ったわけじゃない、酷いと思いながら働くことは結局酷い行いに加担していることになるんじゃないかと。淡々と綴られている文章ではありましたが、きっとこの子は今泣いているんじゃないかと思いながら一行一行目を通しました。全文は覚えておらずとも、あなたが私に伝えようとしたことは覚えています。現場で現役で働く職員として覚えていなくては、忘れてはいけないと感じる内容だったからです。
働く場所で起きていることの酷さを書き、それに対しての感情を書き、葛藤を書き、今人生が八方塞がりでとても苦しいと言ったあなたに。今日はあなたが私にしてくれた質問への答えを数年越しにお返しします。
「利用者さんへの酷い言葉、酷い扱い、杜撰さに傷つくことは甘いですか?いちいち傷ついたり、酷いと感じる人間はこの仕事には向いていませんか?上司にも同僚にもそう言われました。頑張りたかったけど、頑張れないかもしれない自分が情けないです」
傷ついたからと言って入って日が浅い自分に出来ることは何もない、志だけ高くたって自分には知識も技術もまだまだ足りないというようなことも書いていた気がしますが、お答えします。甘くないです。もう一度言います、甘くないです。向いてるか向いていないかについては後で触れますが、もう何度でも言いましょう。甘くないです、寧ろノンシュガーです。やい、俺の目を見ろ。すっかりやられちまったな。さぁ俺の目を見ろ、見るんだ。甘えなんかじゃない。分かるな?海外ドラマの刑事の人格が出てしまいました、失礼しました。
酷い扱い、酷い言葉掛け、酷い態度。酷さの感じ方は人それぞれ違うものだけど、今はそれはそこまで重要ではなくて。酷いものを目の当たりにした時に酷いと感じる速度は段々遅くなっていったり、そこから更に悪化すると感じなくなっていきます。感じなくなったという事実を忘れ、そもそもそれが酷いという認識ごと忘れてしまう時さえあります。私はその現象を自分自身にも、そして一緒に働く人間にも見て来ました。それも何度も、数えきれないほど。
私の転機は大好きなばあちゃんの認知症発症と悪化、そして施設入所以降でした。もう亡くなった父方の祖母が施設に入所していた頃のように、介護施設で働きながらも別の施設では利用者家族という立場が戻ってきた頃です。私の中に「自分のばあちゃんに同じことをされたり言われたりした時、許せるか許せないか」という判断基準が戻って来ました。それまでにもこの基準は薄っすらあったものの、いざ当事者となれば濃度が代わります。例えるならばクリープで作った珈琲と、牛乳で作った珈琲的な。分かりづらいわ。
酷いという感情って、色んな気持ちや考え方の集合体だと思うんです。私のようにもしも自分の身内に同じことをされたらという判断基準を設ける人間も居るし、熱湯風呂に浸かって「熱い!」と叫ぶように考えたり感じたりするより先に飛び出してくる感情の正体である時もあります。さながら感情界隈の鹿。
感情にも種類や分類があって、ポジティブ部門略してポジティ部とネガティブ部門略してネガティ部があります。ポジティ部には嬉しいや楽しいやワクワクなどが所属していて、ネガティ部には酷いとか悲しいとか傷付くが所属しているとします。
ポジティ部の部員にはきっといちいちって表現は使わないんです。いちいち嬉しい、いちいち楽しいとかあまり言いませんよね。ところが、ネガティ部の部員には何だか似合ってしまいます。いちいち悲しい、いちいち傷付く、いちいち落ち込むなど。感情で言うブルベ・イエベとでも申しましょうか。似合うからって押し付けられる側のネガティ部達は堪ったもんじゃありません。あなたが言われたといういちいち傷付くも何とも不憫なネガティ部の一員だと私は考えています。
ポジティ部員達はその感情であること自体を良しとされます。その存在自体が明るい印象を与えるから。ネガティ部員は時に部の存在自体も否定されます。存在してしまうと暗い印象を与えてしまうから。でも、本当にそうなんだろうか。居てはいけない、持ってはいけない感情だろうか。疑問に思う余地もないまま追い込まれてしまってはそりゃあ八方塞がりになるというものです。
あなたはきっと、自分の中に明確な答えを持っていました。その答えが無くなってしまった気がして、迷子になったような気がして、藁にも縋る思いだった。数年越しになってしまいましたが、あなたがかつて掴んだ藁の役割くらいは果たしたい。
あなたが目にしたもの、耳にしたもの、目の当たりにしたもの、こういうものだと押し付けられたもの。それに対して酷いと感じたこと、どうしてと感じたこと、何でそんなことをと感じたこと。あなたが感じたことは、意を決して酷いと声をあげたことは、経験がない故の甘さなんかじゃない。人間が人間を見る仕事に正しさも無ければ間違いも無いけれど、甘さか甘さじゃないかという質問にならハッキリと答えられます。甘さなんかじゃない。私はあなたの甘さと呼ばれた全てを優しさと名付け直したい。あなたは甘いんじゃない、優しいんです。
傷付くのは、目の前で起きていることが受け入れられないからです。あなたはいちいち傷付いていたんじゃなく、ひとつずつちゃんと傷付いていたんです。ひとつずつに向き合い、ひとつずつに一個しかない心を削りながら向かい合うことがどれだけ難しいか。何十年とこの業界で働いていてもそれが出来る人は居るにせよほんのひと握りだと思います。私はとっくに出来ない側の人間になってしまいました。少なくともあなたはその職場で誰も出来ていないことが出来ていたんだと思います。
仕事に向いているか、向いていないかは私には判断出来ません。就いてみたはいいけど給料の低さが嫌で去った人も居たし、外した入れ歯の洗浄がどうしても嫌だと辞めていった人もかつて居ました。ただ、これだけは言えるのですが向き不向きの権利を他人に譲ってはいけません。生殺与奪の権を他人に握らせてはいけないと凄んだ冨岡然り、この権利もまた握らせてはいけません。人生で他人(読み仮名:板前)に握らせていいのは寿司くらいのもんです。因みに、私が好きな寿司ネタは赤貝です。渋いでしょ。
業種問わず、寧ろ仕事に限らず人生で起きる何事に関しても向いてるか・向いてないかの判断って、“一旦何も考えずやるだけやってみる”が一番最初に来ると思うんです。
あいうえおの「あ」で、いちにのさんの「いち」です。子供の頃、プールの授業だったり夏休みの海水浴では準備運動を何より先に優先されましたよね。これからすることに対しての準備が必要で、準備とは 順番が大切だと教えられて来たはずなのに、これが仕事となると何故かあいうえおの「ら」から始まったり、いちにのさんの「ろく」から始まったりする。準備とは?順番とは?生きるとは?人生とは?
なのでってわけじゃあないけど、これは私が私の人生を私なりに生きて来た上での私の意見なんですけど、準備段階も無く、順番もガン無視で、“一旦何も考えずにやるだけやってみる”が叶わないと自分で感じる部分がおおいにあることって大体向かないになりがちです。この一旦が大事なんだと。1ターンの余裕が必要なんだと。
あなたの場合は、きっとその一旦も1ターンも無かったんじゃなかろうか。適切な順番と、段階を踏んでさえいれば。心の準備体操をした上で、そこでの泳ぎ方を教えられ、一旦とりあえずその職場という名のプールの水面に浮かぶところから始めてくれさえすれば。溺れることはなかったんじゃないか、自信を失うこともなかったんじゃないかと思うんです。境遇的にはプールと称してサメの居る水槽に招かれたようなもんですからね、最早詐欺です。せめて人間を招き入れたいのなら人間が安心して過ごせる環境であれよ。
などと、私の悪い癖で若干の遠回りをしましたけども、頑張りたいことを頑張りたかったと過去形にしなければならない悲しみも悔しさも。頑張れないかもしれないに含まれるだけどまだ頑張りたいという思いと、萎んでしまった頑張りたいだけ抱き締めてそれ以上どうしようもなくなってしまった絶望というのは私にも覚えがあります。そこに辿り着いてしまった時のコツは、“此処では”と範囲を絞ることです。此処では頑張れないの後に、他では分からないをくっつけることです。ここはニコイチなんで離してはいけません。蘭と言えば新一、新一と言えば蘭であるように。わからん、人によっては服部かもしれん。
なんにせよ優しい人が優しいまま生きること、働くこと、暮らすことの難易度が年々上がっているように感じる今日この頃ではありますが、税金もありとあらゆるものの値段も年々上がっているんだからそこくらいは上がってくれるなよというのが私の感想であります。
そしてあの日私の元に駆け込んできたあなたも、そして今まさに数多の葛藤と苦しみに押し潰されそうなあなたも、こうはなりたくなかったという人間に今自分がなっているような気がしてふとした瞬間にダメージを負うあなたも、何にも当てはまらなかったあなたも。生きやすく、息がしやすいように。優しさを甘さと呼ばれ付けられる傷と無縁であるように。簡単に大丈夫になれないこのご時世で、何とか今日も無事に暮らしていることを願っています。やっていこうぜ、細々と。しかし確実に。
あぁ、それと。これはめちゃくちゃ時差だけど、暗ければ暗いほど出口ってのは眩く光りやがるので見つかりやすいです。足元と、激しい光の点滅にご注意ください。なんたって目がしぱしぱしちゃうからね。その日は必ずやって来る。しぱしぱしてなんかいられないのさ。
柔らか仕上げのフクダウニーより