創作実話は偽らない
見えないところで悪口を言われていたとする。例えばTwitterの鍵垢だったり、チラシの裏の落書きだったり。それは永遠に私に届かない。だから私にとってそれは存在しないものと一緒なのだ。
創作実話というものがある。
さっきマックで女子高生が話したり、外国の友人に日本について意見されたり、戦争を経験したおじいちゃんが世相を斬ったり、電車に乗れば小学生が無礼な大人をやりこめたりする。
マックで女子高生がらしくない高等な話をしていればギャップでバズる。外国の友人に意見させれば発言の責任を外国の友人に負わせられる。元軍人のおじいちゃんの話は軍オタにウケる。無礼な大人を年端もいかない子供が一言で黙らすのはみんな大好きな勧善懲悪の物語だ。
自分の声を出すのは怖い。自分の声には力がない。それで主語や修飾語を偽装してストーリーを作る。嘘で彩られたエモーショナルなストーリーはよくウケる。
夢見りあむのお気持ち表明にはそうした虚妄の創作物もいくつかあった。一読してわかる粗悪品もあれば、三度読み返しても気づかない良品もあった。
受け取る側が本物だと思えば本物になる。偽物だと思えば偽物になる。本物だと思っていたものの種明かしで偽物だとわかったとして、最初に自分が得た感情は本物だろう。
彼が全部消して「アイドルマスターゼノグラシアしか好きじゃねえ」と書き残したとき、彼にそうさせた嫌な気持ち、めんどくさい、思い通りにならない、煩わしい、すべてを消してスッキリしたい、そういう感情は多分本物だった。偽物だった彼が最後に本物になれた。良いものを見た。作品は受け取った人のものだから、私は良いものを見れたと満足して、拍手をしながら採点の追記を呟いた。
あなたはどう感じただろうか。あなたが感じた怒りも、悲しみも、喜びも、楽しさも、すべて大切で美しいものだから、ちゃんと記しておいてほしい。それがいつかあなたのためになるかは知らないが、私が見たいので。