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美しい日本語は歌の中に

以前友人から「海外からみると日本の歌は変だ。なぜなら日本語で歌っていたのにいきなり英語を歌い出すからだ」と言われたことがあった。
個人的には「なじんでいればそれでいいじゃないか」と思いつつ、洋楽で日本語を歌いだされたら若干の違和感はある。その逆みたいな感覚なのだろう。
有名なものだとQUEENの歌で"Teo Torriatte"(手をとりあって)というものがあるが、日本語ネイティブの立場から聞いてみると妙な感覚に陥る。
なお、Seu Jorge(セウ・ジョルジ)というアーティストの"Japonesa"という歌では「やきそば やきそば 鉄火巻き やきそば やきそば 蟹 やきそば やきそば 鉄火巻き やきそば 醤油」という歌詞がアウトロに8回繰り返されており、響きとノリで勝負している感が陽気な雰囲気で実に面白い。

はて、日本の曲の中で英語を使わず、日本語の美しい表現を盛り込んだ歌があったろうか。友人の言葉を通じて、私は歌が伝えてくれる世界観に酔うことこそあれ、書き言葉としての「うた」の美しさを真剣に吟味したことはなかったことに気づいた。
英語をほとんど使わずに日本語の歌詞を紡ぎ上げているアーティストとして浮かんだのが、「初恋」「踊り子」「ゆうこ」などの名曲で知られる村下孝蔵というひとである。

見た目は地方企業の部長みたいな感じで、顔は元自衛官の女性芸能人であるやす子に似ているという非常に素朴な風貌であるが、一度ギターを持たせれば見事なテクが光り、そして歌声は男性としては高いキーながら優しく包み込むような柔らかさを感じさせる。私の好きなアーティストのひとりである。

彼の書く歌詞は、日本語の美しさをふんだんに生かしているものが多い。めぞん一刻のOPにもなった「陽だまり」という歌は

「蝉時雨遥かすだれごしに 水を打つ夏の夕暮れ 石が川面を跳ねるように ときめいた君を想って」

という歌詞で始まる。ありありと情景が浮かぶのはもちろんだが、歌詞(lyrics)と言うよりは詩(poetry)というべき言葉が並ぶ。

「少女」という歌の2番のサビでは、

「あはれ恋も知らないで まつげぬらした少女は 悲しき夕焼けのまぼろしか」

という歌詞がある。「あはれ」という言葉をみたのは源氏物語以来であるが、全体を通じて実に風流な言葉選びだ。

いずれの歌にせよ、歌詞は話し言葉ではなく書き言葉に近い。いつだったか書き言葉の喪失を勝手に嘆いたことがあったけれども、昭和の音楽を聞き続けることでこうした書き言葉を口伝のように歌い継ぐことは、書き言葉を残す上では非常に意味があるのではないか、と思う。
なんだか昭和の曲がいいなと思う私であったけれど、その淵源はもしかしたら書き言葉への拘泥のようなものだったのだろうか。

シティポップが隆盛の現代社会にあって、最初は昭和の音楽の「レトロな旋律が良い」といったきっかけでもよいのだろうけれど、そのうちに「どんな言葉を歌い上げているのか」に耳を傾けて、そこに残っている書き言葉としての日本語の美しさに、身を委ねる時間が少しでもあればと願う。

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