間合いと話題
タイトルを見て「お、『間合い』と『話題』って韻踏めてんじゃん」と思ったのはさておき、このあいだ突如知らないおじいさんから話しかけられるという事案があった。
「いい天気だねえ」とおじいさんが言ったので「そうですねえ、気持ちいいですねえ」というと、おじいさんは「中国とロシアは危ない、勝手に戦争をやるなってんだ」と突如国際社会に抱く憤慨を口にした。
「そうですねえ、危ないですよねえ」と私がいうと「北朝鮮も危ないんだ」とおじいさん。「そうですねえ」というと、信号が青になったので私はそのおじいさんを撒くべく、そそくさと歩いたのであった。
まあ一言で言えば、思想強めのおじいさんが挨拶もそこそこに日本から見て危ない外国を一方的に3つピックアップしてくれただけの話なのだが、この事案を踏まえて考えさせられるものがあった。
それがまさに、タイトルにもあるような人と人との間合いと選ぶべき話題の話なのである。
私も国際社会にはそれなりに関心があるのでおじいさんとほどほどの議論を交わすことは可能である。
しかし当たり前ながらそんなことをするのはまずあり得ない。なぜならわたしとその思想の強いおじいさんとの間合いは、明らかに国際社会を議論するにふさわしくないからである。
人との間合いによって、話ができる内容は変わる。
間合いの近い人同士であれば将来の話や抱えている悩みなども話ができる。かたや町で突然会ったひとと将来の話をするなど、私にとってはありえない。
鳥なんかでもハトはイヤに近づいても能天気に歩いているが、スズメなんかは近づこうとするや否やサッと飛び立ってしまう。鳥と同じように、人によっても初対面で飛び込める間合いが違うのだ。
初対面でもハトよろしくガンガン間合いを詰めて話していいというひともいれば、スズメのように間合いを詰められすぎるとちょっと、というひともいる。
おじいさんはおそらくハトのような人であったにすぎず、わたしはスズメだっただけのはなしだ。その間合いを見誤ったおじいさんと私が再び出会い、好意的な印象のもとで話をすることは、悲しくもおそらくないだろう。
個人によって異なる最適な間合いと、その間合いにあった話題を選んでコミュニケーションを取れることが、結果的に相互の間合いを近づけることとなり、かけがえのない間柄になっていく。間合いは最初から近すぎれば離れる人もいるし、よそよそすぎれば距離は近づかない。
目には見えないこの間合いを見て、適切な話題を選ぶ力とはコミュニケーション能力そのものといってもいいのである。