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ネットで人の文章を読める時代になって

私がはじめてパソコンに触ったのは小学生5~6年生くらいのときだった。
家に「Windows XP」というOSのパソコンが届いたのを覚えている。パソコンの性能も通信環境も悪く、今のようにサクサク動画を見ることは難しい時代だった。
SNSもInstagramなどはなく、パソコンでやることと言えば当時流行していた「Flashアニメ」を見るかヤフーニュースを漁ることくらいしかなかった。

インターネットとともに思春期を経て大人になった私は、インターネットの発展にわりと無頓着だった気がする。いざ振り返り「あんな不便でよくキレなかったな…」などと感心してみて、はじめて発展ぶりがわかる。

インターネットの発展の中でとりわけ大きな変化といえるのが、SNSの登場だと思う。誰もが表現者としてあれこれと発信ができるようになった。このnoteだってそうした発信のひとつである。
SNSもよく発展したなと感じつつぼんやりX(旧Twitter)などを眺めていると、あることに思いが至る。

それは「書き言葉としての日本語が不自由な人は多い」ということである。
秀逸なジョークもあれば、鋭い皮肉もあれば、温かな文章もあるのだが、中には「お?」という文章があるのだ。もちろんどんな文章を書こうが個人の勝手なのだが、そういう文章に出会うと職業柄どうしても立ち止まってしまう。

具体的な例はここではあげないが、何を言いたいのかわからない怪文書のような文章はSNSによく転がっている。
文章の前後に論理的なつながりがないようなぶつ切りのものだったり、助詞の使い方が文句なしで間違っていたり、単に単語だけが並んでいたりとレパートリーは様々だが、いずれにしても「何を言いたいんだろう」と首をかしげるものがほとんどだ。

記者としての仕事の一つに「文字起こし」というものがある。会見の内容を文字に起こす作業だ。実は、日本人でもしゃべる日本語は文法がめちゃくちゃで破綻していることがしばしばである。日本人であっても日本語を正しく話すことは難しいのだ。

それは逆にいえば、適当にしゃべっていてもなんとなく伝わってしまうのが日本語だということでもある。日本語はよく「しゃべるのは簡単だが書くのは難しい」と言われることがあるが、それはおそらく適当にしゃべっても伝わるが、文章では適当だと途端に伝わらなくなるという面があるのだろう。

新聞や本を読まない人が増えているように、書き言葉を読んでいる人というのは少なく、それだけに話し言葉のように文章を書く行為は日常にありふれている。話すより書くほうがより厳密さを求められるがゆえにその適当さが残念なほど象徴的に表現されたものの一つが、SNSに蔓延する怪文書の類なのだろうと思う。

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