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【育児】娘、とにかくシールを貼る
小さなころに誰もがはまる行為の一つが「シールを貼る」というものであろう。
とにかくどこでもいい、シールをはがして貼るという行為をただ無性に繰り返したくなって、そして物事の分別がわかるようになったとき、かつて熱心にシールを貼ったあの日を思い出しながらシールがべたべたと貼られた遊具に目をやって、「何をしていたんだろう」と、自身の成長を感じる日がやってくる。
私も小さなころ、シールを貼るという行為が非常に好きだった。小さなころはおもちゃのままごとセットみたいなものにべたべたとシールを貼り続け、親から制止されたものの「いいの!」と我を貫き通して、親もそれきり諦めてわたしがなすがままにしていた。
私が大きくなった時、シールまみれのままごとセットに「なんでこんなにシール貼ってんの?」という野暮な質問を母親に投げかけ「あんたが貼ったんだよ」とにべもなく言われた時に、なんて意味のないことをしていたんだろうといたく冷静になったものである。
思い返してみると、シールを熱心に貼り付けているとき、明確な世界観などは存在していなかったと思う。ただ貼りたいからそこに貼り付けていただけで、シールを貼るという行為を邪魔されたくないだけなのだ。ちょうど「山がそこにあるから」という理由で山に登る登山家と同じで、シールがそこにあるから貼り続けていたのである。
大人になってから、シールブックみたいなのを娘に買い与えることが増えてきた。
シールブックにはご丁寧に「もしお子さんのシールを貼り付ける場所がおかしなところでも、お子さんの世界観を尊重してあげてください」などと書いてある。
こんなことを出版社がわざわざ書かないといけないくらい日本の親の感性と知性は劣化したんだなといたく哀しくもなってくるのだが、まあそんなことは置いておいて、とりあえず出版社の人が書いている通り、娘がたとえ床や壁などにシールを貼っても「そのうちはがれるしいいや」などと考えて放置していた。
久々に独りになったときにシールブックを開いてみると、それはもうカオスな世界が広がっていた。
例えば、買い与えたアンパンマンのシールブックではばいきんまんやドキンちゃんなどにオシャレをさせるコーナーがある。本来は鞄やネックレスなどのシールを貼り付けるような作りになっているのだが、なぜか娘はばいきんまんの足元に唐揚げのシールを貼り付けており、一目見てわたしは爆笑してしまった。
ほかにも、電車の車窓に合うようにキャラクターを貼り付けるページがある。本来、運転手のところには、車窓の縁の中に微笑みを浮かべるジャムおじさんのシールを貼らねばならないのだが、残念ながらジャムおじさんのシールは別のページの夜空の星とともに貼り付けられていたことがあった。ちょうど、ジャムおじさんの穏やかな顔もあいまって私にはジャムおじさんの遺影または卒業アルバムの欠席者みたいに見えてしまい、夜空に貼ってあるというシチュエーションもあいまってジャムおじさんの死を思わず連想してしまい、これも(不謹慎だが)笑ってしまう。
当然、こうしたものを娘が意識しているわけもなく、勝手に大人である私が解釈をしてしまった結果でもある。娘は一生懸命貼り付けているので本人の前でシールを貼る行為を笑うことはないが、その結果として生まれた世界はなかなかシュールでもある。
かつて「いいの!」と言ってべたべたとシールを貼り付けていた私も、またシュールな世界をままごとセットなどに作り上げていたのだろうか。その世界をいまや作り出すことができないという厳然たる事実を見つめた時、ふとシールを貼り付ける子供は芸術家なのかもしれない……という思いが去来するのである。