【育児】子による親の「みきわめ」は始まっているような気がする
自動車の教習では、修了試験などの前に「みきわめ」という科目がある。
この「みきわめ」は試験を受ける実力がちゃんと備わっているのかを「みきわめ」るために行われる。
総じて自動車学校の課程は具体的なタイトルが書かれているものだ。「速度の調節」とか「障害物への対応」とかなのだが、なぜか最後に「みきわめ」とだけ書かれている。
免許を取ろうとしていた当時の私は「みきわめ」の文字を見て、審美眼を磨くための教習が一切存在しないのに何かを最後に見極めなくてはならないのかといたく不思議だったのだが、みきわめをされるのは私の方だったと気づき、なるほどと納得したものである。
ところかわって育児の話である。娘の様子を最近みていると、成長とともに「諦念」を知ったようなそぶりがある。
たとえば寝るときに妻がいると、妻に泣きついて母乳を求めたり、「マンマー?!」などと騒いでなかなか眠ろうとしない。
ところが私一人だと、寝室のドアのほうに向かって「マ”マ”ー!」などと騒ぎながらひとしきり泣き、それでも妻が来ないとけろっと泣くのをやめて、ひとりでに諦めて布団に寝っ転がるのだ。実に戦略的なコミュニケーション手段として娘は泣いている。
そして、ちゃんと母親がいるかどうかを認識して行動を変化させている。非常に賢いともいえるが、別の見方をすれば、おそらく母乳が出ない私を見切って諦めているともいえそうだ。
赤ちゃんは普段にこにこと親に対してほほ笑みかける。実にかわいいものだが、行動を見ていると非常に冷静に親を見極めている面もあるのだろう。
私は娘からすでに「みきわめ」を喰らい、夜に甘えるには力が足りぬと評定が下っているのやもしれない。親としての修了はまだまだ遠い。