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【育児】子供って社会から祝福されてんだなと思った

子供と公園に遊びにいくと、いっちょまえに歩きたがって地面に下ろすととてちてと歩き出す。
最近は娘のほうから手をつないでくるようになって、こちらをぐいぐいと引っ張って歩いていくほどであるが、コンクリートの道路でも砂の道でも泥道でもお構いなしで進んでいく。多少汚れるのはともかく、着替えもないのに水場へ飛び込もうとするやんちゃぶりは、流石に制止せざるを得ないところである。

公園ではほかの親子もいたりして、一方的に知らない親子のところに娘が「うー」とか「あー」とか言って手を振ったりして、コミュニケーションを図ろうとしている。親御さんからは「かわいいねえ」と言われて幾分満足げな娘である。こちらも何も言わないというのは変なので「すいませんねえ」などと適当に頭を下げていると、すでに娘は明後日の方向に歩き出している。

見るからに、娘は自由気ままにこの世界を生きている様子であるが、親の立場になってみると子供からほぼひとときも目を離していないことに気づく。
私自身が腰をかがめたり首を下に向けることが多いせいか、筋肉痛なのか関節痛なのか体全体が痛むことも増えた。奥さんも腰が痛いと嘆くことが増えたように思う。20代では無かった感覚だ。

私自身、当然だが小さな頃には親のことなど一切考えずに過ごしていた。私が小さな頃は親はすでに40代だったことを踏まえると、今の私がいまだ感じていない、30代という10年を経て生まれる心労や疲労感を私の親は抱えていたのだろうと思う。そんな苦労を今さらになって忖度すると、母親が家でよく昼寝をしていたというのも実に合点がいく。

私たちが他人のことなどほとんど考えずに漫然と積み重ねてきた幼年期の毎日は、たくさんの周りの人たちのささやかな配慮の中で成り立っていたものだったのだ。そしてもっといえば、そんな配慮を子供に対してしてくれる人がたくさんいるという事実は、この世界の子供のほとんどは社会というものから祝福されて大きくなっていく、ということでもある。私の娘の適当なコミュニケーションにおそらく二度と会うことのない見ず知らずの人が付き合ってくれていることなど、まさにその典型だろう。

幼年期の尊さとは、単に戻ってこないことによるものではなく、周囲の多くの人々の祝福の中で謳歌できていたことそのものなのだ。そして、それに本当の意味で気づけるのは育児に疲れを覚え始めた親になってからというのが、幼年期の輝きをこのうえなく眩しくしているのだと思う。

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