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シブい男でありたいと思った

この間池袋を歩いていたとき、すれ違う人たちのなかに中性的な見た目をした男性たちがいた。ふと目を凝らすと、そういった「きれいな男性」が都心にやけに多いことに気づく。個人の性自認も多様化している時代であるし、男性が化粧をするというのも結構当たり前になりつつあるとも聞くし、時代の流れと言えば流れなのだろう。

もっとも、男性が女性に寄っていくことこそあれ、化粧をしない/一切スネ毛を剃らないなどをして、女性が男性に寄っていく現象というのはほぼみられないのは実に不思議なことだ。
テレビなんかを見ていても女性は昔と変わらずきれいな人が出ているが、男性の俳優の顔つきは非常にきれいな人ばかりで、かつての「太陽にほえろ!」とか「あぶない刑事」に出てくるような暑苦しいほどの「オトコ」のにおいがする男がすっかり減った。
私はきれいな男性になろうという気は全くなく、むしろ憧れを持つのは暑苦しいほどの「オトコ」のにおいがする男のほうである。

そういった暑苦しい男性像と、男性らしい人間性というものは非常によく結びつく。
典型的なのは「男は黙って…」的な、武骨で不器用ながら義理人情には厚く、筋を通すような生き様である。

先日、作家の伊集院静さんの「大人の流儀」という本を読んだ。
伊集院静といえば、成人式の時期に毎年新聞に出ていた「新社会人」という広告があまりにも有名で、私も非常に好きな広告である。まあ、氏は酒を飲みまくりギャンブルをするという生き方をしていた人なのでその生き方に憧れたことは私にはないのだが、考えていることには非常にmasculineで男臭い。たとえば同著でも、以下のような文章がある。

——大人はいいか?
辛いに決っている。
おまけに昨日まではおおめに見てくれたことが、
「何をやってんだ。子供じゃあるまいし」
と本気で怒鳴られる。
割に合わないって?人生というものは総じて割には合わないものだ。そういうことを平然と受け入れて生きるのが大人の男というものだ。

割に合わない人生を平然と受け入れるのが大人の男である——。
誰にでも「やさしい」現代では忌避されやすい態度だが、男なら不条理や理不尽があってもぐずぐず言わずに飲み込めというのは、一応男として30年以上の年月を生きてみて、現実を生きるうえでは大事な心のありようだという実感がある(もちろん、それだけだと大変だけど)。

はて、大人の男って何だろう。私は「シブさをもったひと」という回答をしてみたい。人生に確かな芯を持ちながら忍耐強く、そしてひたむきに研鑽を続けていて、そして大事なのが言葉少なであることだ。ぺらぺらと余計なことをいろいろ話すようではいけない。

ちなみに、伊集院静はその後、こんな風にも言葉をしたためている。

昔からまともな大人というものはごくわずかしかいないのが世の中なのだ。
大半の大人の男は、こう思っている。
——私はいつ大人になったんだろうか。ただ生きてきたらいつの間にか周囲が大人扱いをしていた。
これがおそらく本音だろう。

まったくもってそのとおりである。大人の男とは…とそれらしい説明をしてみても、いざ自分自身は子供のままただ大きくなっているような気がしている。
日々、男って何だろうと考えながらも目の前の理不尽な現実に御託を並べず懸命に生きることによって知らず知らずのうちに男はシブくなっていくのであろうか。

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