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フルオープンのフジテレビ会見を考える~報道はもはや娯楽になってしまった~

何かと話題のフジテレビ会見である。今回改めて仕切り直しということで、フルオープンの形で開催された。閉鎖的な会見にした前回とは打って変わって時間無制限で開催した。記者だけではなくユーチューバーみたいな人なんかも参加したそうで500人以上が会場に集まったらしい。

フジテレビ会見は10時間超に及んだ。長く会見をすることのメリットは会社にとっては「やった感」を出せることだが、記者にとっては長ければそれだけ拘束時間が伸びることになる。
また、記者の質問すべてに対応するという形にした場合、だいたい1時間くらいすると記者が同じようなことを聞いてマンネリ化する。またはマンネリ化してきたら会見している側がぼろを出して袋だたきにあう場合もある。先日のフジテレビ会見は前者のパターンだ。なお、後者のようなパターンの一つが日本郵政の会見である。

会見が長くなると、普段見ないような記者(または記者っぽい人)が登場して大演説を始めることがある。フジテレビ会見でもよくわからん人が出てきて好き勝手しゃべっていた。
私自身も恥ずかしながら記者であるので「記者の質が低い」ということを大上段に構えて言うこと自体がおかしいのだが、同業として見ても実に恥ずかしい質問を投げかける記者が多いのは事実だ。
自己陶酔にも似た横柄な質問ぶりは記者にとって”爪痕”を残すための一種の宣伝みたいなものなのだろうが、これは選挙でわけわからない人が出てくるのと同じようなもので、きわめて醜悪に映った。
それは報道のレピュテーションを下げる行為だろう。地味であっても、淡々と事実を積み上げる報道のありようからすっかり離れてしまっているのを、フジテレビ会見はよく世の中に知らしめた。


私個人、かつて「マスコミや記者の振る舞いは目に余るように思う。私も記者だけど」みたいなことを取材先に言ったことがあった。その際に「記者さんは特別でしょう」と言われたのを記憶している。もちろん、その人は広報経験も長い人なのでリップサービスだというのはわかっている。
それでも、広報として記者の連中と対峙する中で苛立っても「会社側の事情があるんだな」とか「特別だから」といって留飲を下げてくれている人がどこかにいるからこそ、記者の仕事が成り立っている面がある。その事実を見失うと、先に述べたような「醜悪な」記者になっていくのだろうな、と思うのだ。

かつて、記者は特別であることを知った上で礼儀を破れという話をされたことがある。
確かに社長に取材したいといえば社長がおいそれと出てきてくれる記者とは、特別な存在でなくて何なんだろうか。特別だという自覚をいい意味で持っていても、知らず知らずのうちにおごってしまうのが人間であるが、常にそうした自覚をもって己を常に戒め続けないといけないのが記者だと思う。

会見の時に、相手のことをおもねって振舞うべきだなどと野暮なことは言わない。予定調和を破壊してでも聞くべきことはある。それでも聞き方というのはあるはずだ。これは報道関係者うんぬんではなく、単なる人間と人間のコミュニケ―ションの問題である。

考えさせられたのは、こうした記者会見をユーチューバーとかが面白がって配信する様子である。フジテレビだけではなく、みっともない記者も「エンタメ」の一部として消費されている。仮に会見で目立って喜んでいる記者がいたなら、報道はおしまいだ。耳目を引くためだけにニュースを書くのなら、それは報道ではなく単なる娯楽である。
善悪の構図が決まっていて、わかりやすい記者会見などエンタメみたいなものなのだろう。そしてなにより、そんなエンタメを提供しているのが「楽しくなければテレビじゃない」と言っていたフジテレビだというのは実に皮肉だ。フジテレビは会社の存亡をかけて記者会見というエンタメを提供してくれていたと考えれば、テレビはやはり「楽しい」ものなのかもしれない。

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