【育児】音ゲーとしての意思疎通
ある友人で、盛り上がってくると適当にしゃべりだしてしまうやつがいる。
普段はそれなりに真面目なのに、酒が入ったりすると急にそんな感じになってしまう。なんだか面白いのでいまだに付き合いがあるのだが、このあいだ「他者の投げかけに対して明らかに会話の辻褄が合っていない。どんな感じでしゃべっているのか、会話をしていて『これはミスった』といった違和感はないのか」と尋ねたところ「投げかけられた言葉に対してタイミング良く何かを言ってる感じで、言うなればコミュニケーションは音ゲー」とやはり適当にしゃべっており、爆笑してしまった。
そんな彼の「コミュニケーションは音ゲー」という言説について、ふと考える機会があった。
以前、娘は何かを話し始めたという内容を書いた事があったけれども、最近になって加速度的に発話量が増している。「うー!」などと騒ぐことは日常茶飯事で、最近は妻が何度か見本を見せると時折「ちょうちょ(蝶))」とか「ぶーぶ(車)」という言葉を言うようになった。
娘も一生懸命言っていると言うよりは積み木をしながら片手間で突如「ちょうちょ」などというので、我々夫婦は大変驚きながらもう一回言ってはくれまいかと何度か「ちょうちょ」と繰り返すのだが時既に遅し、何の反応もなくブロック遊びに熱中してしまうわけだが、この娘の発話はまさに前述した彼が言った「音ゲーとしてのコミュニケーション」に近い。
最近、娘が寝る前なんかに「保育園楽しかった?」「●●ちゃんと遊んだ?」などと全て「はい」と答えていれば万事平和に収まる質問ばかりを投げかけている。聞くたびに娘は「うん」「うー」「うどぅ」「あぶ」「ばあ」と(一部の発話内容はともかく)非常に良いタイミングで相槌らしきものを打ってくれる。
私は何か反応があれば「そうかあ、よかったねえ」といって次の質問に移ってしまうのでよくないのかもしれないのだが、私と娘のコミュニケーションは現時点では音ゲーの域を出ていないのは紛れもない事実である。
しかし、娘が音ゲーとしてのコミュニケーションを取れるということは「この問いかけは自分に対して何かリアクションすることを求められているのだ」ということがわかっている、ということでもある。
つまり娘は、自分の中で言葉の意味がなんとなくであれ分かっているということだ。確かに最近、風呂に行くときに「お風呂行くよ」というと、娘は勝手に風呂に向かって走り出すようになった。
娘の生きてきた1年以上の時の中でたくさんのひとからもらった言葉が少しずつ蓄積され、娘の中にある言葉の”つぼ”から言葉があふれ出てきている瞬間を私は目にしているのだろう。
するとふと、自分の中に渦巻く言葉たちは、娘の言葉の”つぼ”に入れるにふさわしい美しさであるのかを問い直さねばならぬと己の身が引き締まるのである。