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【経済】音喜多前参院議員の社会保障費減らそうぜ勉強会みたいなのに参加してきた

先日、ある後輩の紹介を受けて、前参議院議員の音喜多駿さんが代表を務める「社会保険料引き下げを実現する会」というものの会合に参加した。
その日は外部の講師を招いた会で、要は「年金改革をして社会保険料の負担を抑えることはできるよ」という話をしてくれた。その後は年金をめぐる制度が異常に複雑なこともあり、講義についての質問のみならず、年金に関する基本的な質問も含めてあれこれ参加者から質問が飛んだ。

その中で「年金って何のためのものなのか?」というものがあった。「自分が老人になったときに生活費として充当するものだろ」という意見もあれば「いやいや、現在生きている老人を社会全体で支えるためのものだろ」という意見もあり、いろいろだ。
音喜多さんは、実はこの「年金とは何ぞや」というところについて、国民の間ではっきりとしたコンセンサスがとれていないし、かつ制度を作る側の厚生労働省もまた理念を持っているとはいえないのではないか、という話をしていた。
これが個人的には結構興味深かった。

現在の基礎年金は賦課方式だ。これは現役世代の人が金を出して、老人のための年金資金に充当する仕組みである。要は、現役世代から老人への「仕送り」をするものだと考えればよい。
この制度は仕送りであるので、価値観としては「現在生きている老人を社会全体で支えるためのものだ」というものが適切だ。

こうした年金制度におけるお人好しな理念は、現役世代からすれば勘弁してくれというたぐいのものだ。「現に自分の生活は厳しいのに、なんでしこたま貯金のある老人を俺らが食わせにゃならんのだ」と疑問を抱く人も多いだろう。

とはいえ、文句を言っても年金保険料の納付は実質的に義務化されており、払わなければ督促状もやってくる。いろいろもやもやするところはありながら、多くの人がとりあえず年金保険料を払って自分の手取りを減らしているのが実情だ。

こんな調子で義務化された支払いを続けていると、当然「こんだけ払ったんだから将来ちゃんともらえるはず」という考え、つまり「年金とは自分が老人になるまで支払いを強制されている忌まわしいものだが、年を取ったら少なくとも払った分は戻ってくるはず」という考えになるのも納得できる。このとき、年金は「自分が老人になったとき生活費として充当するものだ」という発想に至り、気づけば「仕送り」の価値観はおぼろげなものになっていく。
年金保険料の負担が大したことなければ問題にもならないのだろうが、現在の年金保険料の負担はお世辞にも小さいとは言えない。となると「仕送りすることが義務化されている」という制度のなかで「なんで仕送りなんかしなきゃいけないんだよ」という価値観になるのも自然だよねということだ。

現在、国は基礎年金が破綻している(国や与党は一応年金について「100年先まで続く」と喧伝している。「年金は100年安心」の詳細は公明党の資料がわかりやすい)ことから、厚生年金から金を引っ張ってきて基礎年金制度を何とか「存続」するための年金制度の見直し案を提示している。年収798万円以上の「高所得者」の保険料負担を増やす話なんかもあり、SNSなんかでは大きな話題だ。

国が年金制度を保つために保険料負担を増やせば増やすほど、先に触れた「仕送り」の価値観より「自分ももらえるんだろうな?」という価値観のほうが強まっていく。
ただでさえ少子化が進む中で「こんだけ払ってるなら自分ももらえないとおかしいだろ」価値観が優勢になっていけば、現役世代から徴収して老人にわたす仕組みを維持し続ける限りはますます年金をめぐる財政状況は逼迫し、さらなる負担増を生むことになる。
経済におけるデフレスパイラルのような、年金における負のスパイラルが生まれてしまう。

社会保障負担が増えるということは、税負担が増えるのと同じで、真面目に一生懸命働いてお金を稼いだ人ほど損をする仕組みになるということだ。次第に国の経済が衰え、国家が成り立たなくなるのも自然なことである。これは社会主義の失敗の例を引くまでもない。

思えば、国は年金について100年安心だとしている。
万が一、国の年金制度がそんな素晴らしい商品性なのであれば、強制的に徴収しなくとも個人が自由に国の年金に加入するかどうかを決められる制度にすればいいのではないか。
看板に嘘偽りがないのなら、国民も「そんなに素晴らしい年金なら進んで払おう」という心意気で喜んで年金保険料を納めるだろう。
もっともそれは、「本当に年金が100年安心ならば」という話だが――。

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