
君が僕に手を振ったあと
君が僕に手を振ったあと、僕は君の後ろ姿に尻尾を振った。
屋根の隙間から差し込む日差しは毛布のように暖かい。
寝惚けた僕は君が来るのに気付かず身体を丸めて欠伸をした。
そんな僕に君は緊張気味に手を振った。
まるで初めて会うかのように。
僕は驚いて丸くなった身体を反らした。
君は何も出来ずにいる僕に微笑むと満足そうに歩いていった。
君の歩く姿はいつも前向きに見える。
僕が君を初めて見たのはもう何年も前の話だ。
舞い散る桜の花びらが日差しで輝くあの頃。
君は僕の目の前で持っていた資料を大袈裟に落とした。
その時、僕は初めて君と目が合った。
僕はその場で固まった。
でも君は僕に気付かないふりをして地面に手を添えて撫でるように落ちたものを探した。
毛玉まみれの背中はいつにもましてむず痒い。
君はすべて拾い上げると汚れを払った。
拾った資料を片手に難しそうに立ち上がった君は慣れた道をつよく歩いた。
それから僕はずっと君を見ていた。
なぜなら君は他の人とは違ったから。
君は来る日もくる日も僕の前を通り過ぎた。
隣を歩いても、道の真ん中で寝転んでも。
僕は不思議で仕方なかった。
ある人は僕に近づいて手を伸ばした。
ある人は僕を見ると高い声で手を振った。
ある人は大きな声を出しながら僕を追いかけた。
でも、君だけは僕を気にもとめなかった。
だから僕は驚いた。
僕が君と出会ってから何度目の春を迎えただろう。
そんなことを考えていた僕に君は初めて手を振った。
だから、僕は嬉しかった。
それからも、君は僕がいた場所に何度も手を振った。
けれど僕は見られるのが苦手だからいつも身体が固まってしまう。
いつしか、手を振る君をただ目で追うのが僕の日常になっていた。
でも、その頃に僕の声は出なくなってしまった。
そして、君の秘密に気付いたのもその頃だった。
とある日の朝、空は曇っていた。
僕は冷えた身体を揺らしながら君を待った。
そんな僕に容赦無く雨はゆっくり降り始めた。
僕は降り始めた雨を避けるようにして起き上がると雨宿りを探しにいつもの寝床を離れた。
そんな時だった。
ついさっきまで僕がいた場所に手を振る君がいた。
片手に杖を持つ君の後ろ姿
僕は日の当たらない屋根の下に戻って尻尾を振った。
(子猫の鳴き声)
君はまた嬉しそうにこちらに微笑むと足音を重ねながらまっすぐに歩いていった。
僕は安心して雨音とともに静かに目を閉じた。
目の見えない君へ。