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広い空が怖いひと・狭い空を怖がる私
大学一年生のころ、英米文学の講義でくまのプーさん(『Winnie the Pooh』、『The House At Pooh Corner』)を原文で読んだ。
単語ひとつを丁寧に取り上げて「辞書的にはこうだけど、文化的な背景を踏まえるとちがう訳になるんじゃないか」とか「こういう解釈もできるのでは」とか、どんどん議論が広がっていくのが面白かったのを覚えている。私に文学の学問としての魅力を教えてくれた講義だった。
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そんな講義の終盤あたりだっただろうか、記憶が確かなら、広くひらけた空の挿絵を見て先生がこんなことを言ったのだ。
「こういうだだっ広い空を前にすると、何をしたらいいのかわからなくて不安になるような人もいるかもしれませんね」
当時の私には先生の言っているその気持ちが全くといっていいほど理解できなかった。
低所恐怖症(←というのものがあることは今調べて初めて知った!)的なことを指しているのではなく、あくまで文学として比喩の話をしているようだ、というのはわかる。
でもどこまでも続く広い空があることの、なにが恐ろしいのだろう?
先生の言葉を素直にメタファーとして解釈するのならば、それはどこにでも行ける・何でもやれる可能性を持っているということで、むしろとても幸せなことではないのか。
私はそんなふうに思って首をかしげるばかりだった。
10代の、自分もまた無限の空を持っているような気でいて、そのことがうれしくてたまらなかったころの話だ。
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この数か月間の私は就職活動に勤しんでいた。
リクルートスーツの似合わなさはさておき、就活自体は覚悟していたよりずっと面白かった。幼少期連れていってもらえなかったキッザニアに無料で行かせてもらう感覚で色々な業界のインターンに参加してみたり、顧客としてしか関わる機会がなかった色々な企業で働いている人たちとお話できたり……果たしてこんなにミーハーな態度でよいのかとは思うが、私は就活生という身分を案外楽しめるタイプだったようだ。というわけで私の就活に関して気を遣ってくれていた友人・後輩のみなさんはご心配なく&ありがとう!
とはいえ、いま私は人生を決めているのだ、と思うと多少はシリアスな気持ちにもなるものだ。
就活においてはこの世の全ての面接を受けるわけにもいかないので、自分がやりたいことや向いていることを考えて業界を絞り、さらに諸々の条件を見比べて選考に進む企業も絞りこんでいかなければいけない。
どうやら私は面接や筆記試験よりもこの作業が苦手らしかった。
あり得たかもしれない未来を自分の手で閉ざしていくのにはとても勇気がいる。自分なりに業界研究・企業研究をしてみても結局は入ってみないとわからない部分も大きいわけで、就活って目隠しをして籤を引くみたいだなあと思う。実は選ばなかったほうが私のすこぶる輝ける道だったかもしれないよ、なんて考えてしまうと、籤を握れるだけ握ったままで手を箱のなかに入れっぱなしにしたくなってしまう。
それで私は数年ぶりにあの英文学の授業と空の話を思い出したのだった。
私は広い空は怖くなかったけれど、そのぶん空が狭くなっていくこと、より正確に言えば自分で空を狭めていくことが怖いみたいだ。
それは元々広い空を愛していたからこそ起こる感情だと捉えれば、真逆に見えて実は表裏一体の恐れなのかもしれない。
思い返せば私は何か新しいことを始めるのが好きなタイプで、趣味にしても興味を持ったものは片っ端から手を出し、実際にやっていくなかで自分にある程度適性がありそうなものを選んできた気がする。短歌もその一つだ。目標も特に決めないまま、好奇心と衝動だけで何かを始めるときの楽しさといったらたまらない。それこそ、急に出来た休日に何をしたらいいのかわからなくて悩む、なんてことは一度もなかった。
でもその副産物として、大学一年生のころ作曲がしてみたくて買ったオーディオインターフェースやDAWは部屋とPCに眠ったままだし、数年起動もさせていないくせに中古で売ろうという決断もできていない。いつか急に作曲がしたくなって、才能が目覚めるかもしれないから……。可能性を手放さずにキープしておくということが安心材料になっていた。
そんな風に生きてきたので、自分の未来をひとつのルートに収束させる行為に苦手意識があるのだろう。これは就職に限ったことではなく、たとえば早く結婚して落ち着きたい、みたいな感覚もよくわからない。友だち曰く終わりのないパートナー探しから抜けて自分の身分が確定する感じがいいらしいけれど、私は逆にそれが怖いと思う。
できることなら私を何体かに分身させて、研究をする私/民間企業Aで働く私/民間企業Bで働く私/教壇に立つ私/芸術に本気で打ち込む私/世界中を旅する私……などを同時にがんばらせ、それぞれに色々な人と(恋愛関係に限らず)交際してもらい、50年後くらいに一番幸せだった子をしれっと正史の私ということにしてしまいたい。いや、それでも結局一番幸せだった子を選ぶときにまた迷ってしまうのかな。だったら私はあらゆる可能性が同時に存在する空をずっと眺めていたい──と考えて、ふと気づいた。
いま私の空は本当に狭くなろうとしているのだろうか。
空がほんとうに狭まってしまうことは確かにある。
詳細は省くが、昔すごく大切だった人との関係を自分の進路や諸々の事情と天秤にかけたうえで終わらせたことがあった。そのときは人生における不可逆の選択を行ったんだという感覚をはっきりと感じたし、実際に今後元の関係性で会う機会は二度とないと思う。あれは私のあったかもしれない未来をはっきりと閉ざす出来事で、自分の手で澄んだ空を裁ち切る痛みを伴うものだった。
それに比べると就職で感じる”空の狭さ”は性質が違うように思える。もちろんたった一枚の新卒カードをどう使うかという選択は不可逆的なのだが、その結果選ばなかったほうに行く術が一生なくなるというわけではないだろう。
前述の選択が空を「裁ち切る」なら、就職はいわばこれから飛んでいく「方角を決める」ような。実際に空が狭くなっているわけではなく、視点と距離感の問題──私が見上げる側から飛ぶ側に変わったから、空が近づいたぶん狭く感じるようになっただけなのではないか。
屁理屈かもしれないが、そう考えてからずっと気が楽になった。
たしかに私は今進路を決めようとしている。けれどそれは「どこにも戻れない」という選択ではなく、ある方角を選んで飛び出したとしてその視野の外に空は存在し続けるはずだ。私がひいひい言いながら翼を動かしている間にも背後では雲や星が動いていて、時折それを振り返って眺めてみたり、もし私が望めばくるりと旋回を決めて(辿り着けるかは別として)そちらへ向かってみたりすることができる。逆に私の意思とは関係なく、風向きが変わることもあれば、思いがけず上昇気流に乗ることもあるだろう。気づいたらどこを飛んでいるのかも分からなくなっているかもしれない。
今はそういうことを月並みに怖がりながらも、できるだけ面白がれたらいいな、と思う。そして未知の状態を面白がるということにかけては、ちょっとだけ自信がある。
だって私は広い空が怖くない人間なのだ。
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