盗作になっていないかわざわざ後から調べるような真似
「ゲリラ豪雨」という言葉が世間で広く使われ始めたのはおそらく十五年くらい前である。僕はその当時高校生で、天気予報かなにかでそれを初めて耳にした。ちょっと大仰でおどろおどろしい語感が個人的にツボで、それが指す雨自体の激しさに対して言葉がやや過剰な印象を受けたのを記憶している。
ある大雨の日、僕は「ゴリラゲーウ」という言葉を出し抜けに思いついた。響きだけなら北欧のスラッシュメタルバンドみたいである。多分、周囲の人間がゲリラ豪雨という言葉に慣れて当たり前のように使い始めていたため、僕は訳の分からない使命感みたいなものを感じていたのだと思う。かつてそこにあったはずの強烈なインパクトを取り戻し、人々にもう一度そのありがたみを認識させたかったのだ。僕は高校のランチタイムで友達の誰かが会話の流れでゲリラ豪雨という言葉を発した際、間を置かずにゴリラゲーウと言ってみた。わざとらしく響かないように文脈に織り交ぜつつ、なおかつ単なる言い間違いだと思われないように発音のニュアンスに細心の注意を払った。それが功を奏したのか、一人の友達にかなりウケてそれが周囲にも伝播した。「ゲーウってところが良いね」と彼は言った。
それから程なくして「ゴリラ豪雨」という言葉をどこかで聞くなり見るなりした。僕は自分のアイデアが特別なものではなく、誰にでも思いつけるような平凡な発想だったのだと悟った。実を言うと以前にも似たような経験があった。僕はお笑い芸人のアンガールズが一世を風靡する以前から「キモかわいい」という表現を独自に使っていたのである。また後にフェイスブックが日本に普及され始めた頃には「フェイクブッス」という言葉を思いついた。しかし、これもどうせ二番煎じだろうと試しにグーグルで検索してみると案の定何件もヒットした。
これらのアイデアを僕はどこからも盗用していないはずである。少なくとも意図的にパクった記憶はないし、影響を受けたかもしれない情報ソースも思い浮かばない。だから、それがいかに凡庸なものだったかは別としても、自分でそこに辿り着いたという事実にある種の自信を持って良いはずだ。誰にでも登れるような低い山であろうが、僕はちゃんと自らの足で登頂したのである。
例として挙げるのも少し気が引けるのだけれど、北野武がとある欧州の映画監督(フェリーニだかゴダールだったか忘れてしまった)の作品をなにかの切っ掛けで見た後に「なんだ、こういうのもうあったのか」と感じたらしい。知らなかっただけで、自分のやろうとしてきたことが既に作品化されていたという訳だ。勿論、北野武は自らの作品に自信を持っているし、盗作になっていないかわざわざ後から調べるような真似をする必要はないという趣旨の発言もしている。まあ言うまでもなくゴリラゲーウにそれほどの芸術的価値はないのだけれど。