KARAハラちゃんの死を受けて
リスペクトって言葉がありますが、半年くらい前まで、何の事やら不明でした。しかも、なぜ横文字で言わなければいけないのか、そしてそれを会話の中に混じらせるのか、日本人特に若い人や芸能かぶれしている人の悪い癖にしか思えません。
また、安易に尊敬という言葉を出すことに、個人的に不快感を得る事が多いです。
そんなに簡単に、尊敬するものなのか?と。
「頭が上がらない」「手本になる」というならわかるのですが。それに、尊敬すると、その人以上になれないという意識があるので、私には尊敬する人がいません。まあ、それ以上に意識してないだけだと思いますが、決して安易に尊敬という言葉を使いたくない意識もあります。
ほとんどの方が、子供の頃、自分の中にヒーローやヒロインを持つでしょう。
「憧れ」でもあります。
そうなりたい、ってね。
また、自分には到底持ててない何かがあり、その為に「魅力」に映る。
今回、KARAのハラちゃんが、亡くなってしまった事を前回取り上げた。あまり芸能かぶれしている自分ではないのですが、KARA含め、韓国の芸能界事情に疑念を感じ、また会社奴隷にも通じる、薄給の中、プロダクションの言いなりで仕事をしなければならず、果ては接待という本業とは別の事も強いられるような、お国柄の業界事情を聞かされる中、彼女らも相当頑張っていた事に、どこか自分を重ねてしまい、陰ながら応援はしてました。
私も芸能人への憧れみたいなものは、学生の頃ありました。
小学生時代は、TVっ子でもあり、他の家庭に比べて、レコードやラジカセ等の音響機器(ステレオは持てるほど広い家庭ではなかった)に、早くから触れてましたので、当時の歌番組は良くみてましたし、中学高校時代は、洋楽を聞きつつ、大学時代もFM雑誌を買いつつ、エアチェックをしてもいました。
そんな時代を過ごしつつ、15年ほど前になってしまうでしょうか?。本田美奈子さんが亡くなられた時も相当ショックでした。
当時も繁忙続きで、自分が選べないメンバとの確執で、嫌気がさしてもおり、自分はやりたいようにできないもどかしさの中、明け方まで作業する事が多かったのです。
そんな時に、復帰に向けて一所懸命治療をしている姿を良く見聞きしていただけに、残念に感じ、士気が抜けた記憶があります。
やはり、それだけ繁忙続きで、心が折れそうになると、頑張っている姿を見かける芸能人に対しては、己のごとくに投影してしまうものです。
そういった過去があるだけに、今回もかなり残念であると共に、自身に衝撃をうけているわけです。
「あなたが死んだら(抜けたら)、残された者はどうなるの?」という意見もあるようです。
そうですね。そう私も考えてしまいます。
ですが、残された者という以前に、自分自身の人生は、周りの人の為にあるよりも自分の為にある人生なのですから、死のうが抜けようが、周りの事を考えても無意味なのです。残された者は、残された者で考えるしかないのです。実際に残されたらそうなります。残された側にも責任はあると私は思ってます。
今回、彼女に対しては、周りは多くヘルプになられたでしょう。でも、考えて行動するのは本人です。周りはできる限りの事はしても、したりなくても、最後は本人が決める事。本人の人生なのですから。
自ら死を選んでしまった事は、その周りの方以上に芸能人という事で、直接に関わってない我々にも影響が出てしまう事も残念です。
そこには、「置かれている立場」というのがあるのでしょう。
一介の社員と経営者との死では、立場が違うだけに、その影響度も異なります。それと似たようなものです。によるのかもしれません。
ただ、ネット上で見ていると、彼女の死に対して、あまり本国では、大きな事になっていない。死になれてしまっているか、ふたをしろの如くの対応みたいで、慰安婦やらGなんとかよりも、ずっと低い感情に見えます。報道の在り方によるのかもしれません。
一芸能人の死というよりも、かの国の業界事情や上級国民に相当するエゴのような存在により、操作されてしまっているように思える事に問題があるように感じます。
しかし、今回は、お国柄なのか、市民による妬みが、わが国よりも想像以上にあるようで、それが長く続くストレスを招き、結果として行き場がなくなったというようにも捉えられます。