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あ、こんなところにエイゴ沼にはまった外資系ジョブホッパーが。①

 『おまえの生きざまは不快だ、このままではどうにもまずいぞ。』
そう絶叫しているような広告が所せましと乱立しているのを見るにつけ、東京の電車広告はよくできているものだ。

やれ「脱毛とエステに通え」だの。男も例外ではないぞ、その無精ひげはどうした。
やれ「借金しろ」だの。マイホームも持てないような財産でどう生きるんだ。
やれ「結婚しろ」だの。ビンボーなうえに独りぼっちかい。
挙句の果てには、墓石の広告すらでかでかと目立ち、安心して死を迎えることすら許してくれやしない。

人生の節目節目にきっちりと焦燥感を抱けるように、時系列順にぴっしりと並んだ広告のえぐさたるや。
人生の模範解答を知りたければ自己啓発本なんて読まなくていい、電車広告を見ろ。

そんな模範的人生の縮図の中で、どうにも浮いている広告がある。

英語塾である。違う、高校や大学受験用のじゃなくて。サラリーマンが通うようなやつね。

脱毛にしろ借金にしろ、広告は大抵「いまのあなた」に何が欠けているかを鋭く指摘する文言が、口調こそたいして露骨でなくても目にとどまるようにデザインされている。
曰く、あなたのワキや口周りにチクチクと生えている毛を放置する怠惰な美意識やたまのハーゲンダッツに甘んじる貧乏性があなた自身を蝕んでいるのである。
毛むくじゃらのうまい棒喰らいになりたくなければ俺に従え。

ただし、英語塾のマーケティングは一味変わっている。
素っ気ないくらい簡潔な受講費用の提示、ものによっては広告らしからぬ長文でサービスをくどくどとアピールしている。
甘言も脅しもなく、さっさと本題に入ってしまうその手際や、お見事。
「いまのあなた」に何が欠けているか言うまでもない、それは英語力だろ。そう言わんばかりである。

あたかも英語塾のマーケティング手法だけ異常であるかのように書き連ねたが、きっとそのカラクリは大したことないのだろう。
英語塾市場があまりに苛烈だから、ちょっとやそっとの脅しをかける程度では競合他社に獲られて客が集まらない。
それだけの話なのだろう。

ただ、恐ろしいのだ。
この日本で、いくらグローバル化が進んでいるとはいえ、いつから英語が必須だと錯覚していた…?いつから、その論調が平気で広告に用いられるようになった…?

1979年に日本で導入され始めたTOEICがいつから履歴書の資格欄を埋める「必須項目」となったのかは知らない。
大学四年生の就活生がワイワイ集まって言うことにゃ「TOEIC何点あれば履歴書に書いていいと思う?」なのだから、就職活動に効力を発揮するのは間違いないのだろう。
ほかの資格と違って合否ではなく点数を競うものだから、人事のほうも就活生同士を比較しやすいだろうし。

でも、いざ入社しても、ほとんどの場合、英語なんて使わないのだ。
TOEICで測れたのは、とどのつまり、中高生のころ英語のお勉強は得意だったかくらいなのではないか。
それだったら、日本語力を測る検定や資格がもっと普及してくれよ。
社会人になって独特の言い回しや敬語に苦戦する若者のほうがよっぽど大変じゃないか。
更には昇進や昇給にまでTOEICを絡ませ、実務では一切英語を必要としない企業よ、ホント何がしたいんだ。

問答無用で必須なものと刷り込まれ、実体のないまま就職活動という競争の場でも武器と化する。英語は、我が国では人々の不可思議な焦りによって肥大化したモンスターである。

たかが言語だぞ。日本語と同じで。

「たかが」等と嘯き、国や企業という単位に及んでまで毒牙にかけてきたが、私はというと英語がないと生きてこれなかった人間である。
これからも英語なしでは生きられない。
2022年の秋には、英語を学び始めて20周年を迎える。

私にとって英語はモンスターではないものの、自分の保護者でありながら強敵という、愛憎まみれる昼ドラばりの関係性がある。
なんせ教科書で学ぶ正しい文法や発音ばかりの世界ではない。
「受験英語は使えない」なんて生易しいものではないよ。
様々な国で様々なバックグラウンドを持つ人が扱う言語なのだから、当然各国でガラパゴス化している。
国単位で済んでいるかも怪しい。
もっと細分化していることもある。
英語を使って新たな人と出会うたびに新鮮な驚きがあると同時に、この人に伝わる英語はどんな「エイゴ」だろうかと苦悶する。

日本人同士でも、関係性や環境によってコミュニケーションの取り方が異なるのは当然だが、それを外国人相手に外国語でこなすのはいつだって面白いし苦しい。
思いやって思いやられて、時に大失敗して嫌われたりしながら、今日も英語を使う環境で四苦八苦している。

このnoteでは、私が英語を操って様々な人とコミュニケーションを図る様を、まるで電車広告のように時系列に沿って記録しながら、各環境においてどのように私なりの「エイゴ」として変容させていったか考えてみたい。

エイゴ沼にはまったジョブホッパーに過ぎないから、英語教育に関しての有益な情報や便利なフレーズなど、教育的価値があるものが提供できるとは思えない。
でも、教科書や参考書が示す圧倒的に「正しい」英語に少し疲れてしまった人や様々なレッテルを貼られるのに飽き飽きしてしまった帰国子女にとって、一息つけるところにはなる。
私のまぬけなエピソードで笑ってくれたり、こんな頭弱い人間がそれなりに生きているなら自分も大丈夫って思ってくれたらうれしい。
英語って、勉強することだけに苦労が集約されているわけじゃないんだよね。
心当たりある人もない人も、ちょっとここで自分を労っておきましょうや。






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