ママはかいぞく
仕事へ向かう。
電車に乗った瞬間に気がつく。
いつものスーツのおじさんも、鞄がパンパンに膨れ上がった丸坊主の少年も、サラサラの髪をなびかせた頭からつま先までパーフェクトなお姉さんも今日はいない。
今日は木曜なのに、休日だ。
私は休日に出勤をする。
ガラガラと空いた車内の真ん中に堂々と座る。いつものちゃんとした身なりの人達がいないだけで、少しだけちゃんとした人達の中に溶け込めた様で心置きなく居座る事が出来た。
一つ駅が過ぎ、2人の親子が私の目の前に座った。
大きな荷物を両手に抱え、かろうじて余らせた右手の二本の指で小さな男の子を手をしっかり握りしめていた。
男の子は3歳位で、自分の体の半分位の大きさのワニの人形を片手で握りしめていた。
男の子は私の靴下を真剣な顔でじっくりと見ていた。私は火星人が描かれた靴下を履いていた。私は火星人のデザインだと気付かれないように靴下をわざと弛ませて履いていた。
ずっと見てくれている男の子に申し訳ない気持ちになり、私は弛んでいた靴下をぴんと伸ばしてみた。
男の子の目は丸くなり、私の顔と私の靴下を交互に見合っていた。
しばらくして男の子は私の中の全てを理解したかの様に、ゆっくりと息を吐き深い眠りに落ちていった。
車内にも少しずつ人が増え始め男の子のお母さんは男の子を膝に乗せ、隣に人が座れるように荷物を上の台に乗せたりとなるべくコンパクトになるように座っていた。
私は気がつくと男の子が眠る背中をずっと眺めていた。
今日初めて会ったはずなのに、その背中がとても大事な人の背中のように思えた。
男の子は起こされた。
母親は上に置いた台から荷物を下ろし、電車を降りる支度を始めた。
すると、荷物から1冊の絵本が私に向かって落ちてきた。
「ママはかいぞく」というタイトルの絵本だった。
私は母親に絵本を渡した。
母親は力強く絵本を受け取った。
母親はフック船長に似ていた。
絵本のタイトルにも、母親の顔にも驚いた私は、男の子が握りしめていたワニの人形を思わず凝視した。
これは私のピーターパンへのイマジネーションが行き過ぎているのか。
私はこの二人の親子の事を忘れたくないと思った。
いつかまた、つまらなくなった、考えることが何にもなくなってしまった日に、二人の事を思い出したい。