ステレオタイプと差別(1)
フランス人のスタンドアップ芸人Faryがあるインタビューでとても印象的なことを言っていた。彼のコントは、移民2世(国籍はフランス)として、祖国フランスに対して抱く複雑な気持ちが本当にうまく表現されている。
Fary - Moonwalk
訳≫ この作品では、「アイデンティティ」を主題の1つにしたかった。もうすでにやり尽くされたテーマだと言われたり、ありきたりな主題すぎると言われたりする。
でも、未だに、日常の中で起きている限りそれは主題(ネタ)になる。アイデンティティとか、差別とか、人種的な差異というテーマが語り尽くされてしまったという考え方には全く賛同できない。それを実際に生きている(経験している)人がいる限り、充分に語られていないし、聞き入れられていないってこと。
そして、続くマイノリティ表象の話。
訳≫ その集団(国)の一員であると実感するために、自分と似ている奴がテレビなどのメディアに登場する事が大事。(…)自分もその集団(国)の"風景(姿)"の一部として存在していることを実感できる。自分と似たような人が表象されないということは、自分という存在が無視されていると同じような感覚なのだ。
マイノリティの表象の仕方と危うさ
常にメディアを通して世界を見ている私たちは、常にステレオタイプ化された世界を見ているようなものである。欧米のスタンドアップコメディは、そのようなステレオタイプを揺さぶるのが基本の形だ。ステレオタイプはだいたい差別のはじまりでもある。しかし、Faryの言う"faire partie du paysage"という表現は、集団内で認識されること、すなわち、ある種カテゴライズ化されてしまうことも含む願望の話で、ステレオタイプ化と紙一重であるという意味でとても印象的であった。なかなか日本語のよい訳が見つからないのだが…。
例えば、Netflixオリジナル作品は世界各地で、マイノリティや社会的なタブーの表象に挑戦している。それは大いに評価されるべきことである。エンタメの革新だ!一方でそのマイノリティの描き方には常に批判も付き纏う。多様な人(人種・性など)をステレオタイプ化せずに描く難しさだ。視聴者側にもその紙一重の状況を捉える最低限のリテラシーが求められているのだろう。
コロナ禍で、毎日そんなことを考えていた時に、繰り返された悲劇と#BlackLivesMatter運動が始まって、改めて、黒人差別をはじめとした、あらゆる差別の加害者にならないために、考え続けなければならない、学び続けなければならない、一過性で終わらないようにしなければならないという責任を突きつけられる。