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○○○○AI時代のアウラとか
2024/08/21 「AIと著作権II」の講演映像、講義資料へのリンクを追加
2024/08/21 「AIと著作権について」へのリンクを追加
『DALL-E 2』(2022年~)、『Stable Diffusion』(同じく2022年~)、生成AI論争
高品質な画像生成AIモデル『DALL-E 2』や『Stable Diffusion』を皮切りに、画像のみに止まらず、生成AIの急激な発展が続いている。
そしてまた、特にネット絵描き界隈と元Twitter(エックスのすがた)などのUGCプラットフォームを中心に、反発、反対運動、主張、そして論争…とも言えない言葉での殴り合いが燃え上がり、今も燻っている。
長いこと燻り続けてはいるんだけども…
その主張などの裏付けは何なのか。表現や創作の本質・特性とは何で、だからどう守られるべきなのか、見ててもよく分からんのだよね。
他称「反AI」の主張は一貫しない、あるいは他人に要求しつつ自身は守っていない。権利者団体はそれぞれに異なるポジショントーク。みんなバラバラ、どころか1人から出る言葉すらバラバラなことも。
妥協点がない以上は、法律が、著作権が持ち出されるのは順当だとは思うけれど、お上や著作権こそが表現・創作・アートの本質、ってことは流石に無いはずだ。強制的な線引きであって納得はしがたい。
一体どれが、そしてどの程度まで、本質と言えるんだ?その根拠は、根本はなんだ?
とはいえそれを、各自の戦いに忙しい彼らに求めるのも筋違いだろう。自力で追ってみるしかないんだろうな。
ターゲットは、イラストを中心に、それに近しい漫画・アニメ・ゲーム等を含む大衆文化と、インターネット文化。あと倫理。
表現、創作、アート、そしてそれを取り巻く倫理等に関する言葉や論を、様々な物事に照らし合わせることで、その根本と輪郭、AIとの関係について探りましたという顔をしつつ、超てけとーなことを抜かしていきたいと思う。
まずは「アウラ」だ。
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「アウラ」のドイツ語での意味は、微風・香り・輝き、カリスマ的な雰囲気、オーラ(霊気)など。
使用する魔法は「服従させる魔法(アゼリューゼ)」。
なお、この怪文書の本文とはあまり関係ないはずだったのに。
「アウラ」(1931年、1936-1939年)
ヴァルター・ベンヤミンが『写真小史』(1931年)、そして『複製技術時代の芸術』(1936-1939年)で示した「アウラ」なる概念。
特に後者は、カルチュラル・スタディーズやメディア論の領域に大きな影響を及ぼしたそうな。但し情報源はWikipedia。
AI画像生成と特徴が近いとされる写真。技術と芸術の関係。生成AIと照らし合わせるには良さそうだ。フリーレンの「アウラ」繋がりで拾ってきたとは思えないほどに。
和訳本から面白そうな要素をチェリーピックしてみるとしよう。
マルクス「民主主義は滅亡する!」 ΩΩΩ<な、なんだってー!「いま」「ここに」しかないという一回性がアウラ
存在の場と結びついた一回性がアウラ
ツツウラウラ「ほんもの」という概念は「いま」「ここに」しかないという性格によってつくられる
複製技術により、「いま」「ここに」しかないという性格は、完全に骨抜きにされてしまう
芸術作品の真正性、歴史的証言力などがぐらつき、作品のもつ権威そのものがゆらぐ
アウラの模造はありえない。消失する
精神の集中を要求する
一回性と歴史的時間
礼拝的価値。儀式の道具という機能。芸術の自律性という幻想
ルネッサンスから300年間
すべての芸術には物質的な部分がある。それは、近代科学や現代的実践の影響から逃れることを許さない
オリジナルそのものを視聴者の方に近づける。カテドラルが聳えている場所から移され、個人のアトリエで鑑賞される
それぞれ特殊な状況のもとにある受け手のほうに近づけることで、一種のアクチュアリティ(現実性、現実み)を生み出す
だれでもなかば専門家として見物することができる。読者は、つねに執筆者になりうる
散漫な気ばらし
一時性と反復性
展示的価値。儀式への寄生から解放する。よって立つ根拠を政治におく
1900年~
「上部構造」(政治、道徳、宗教、芸術など)の変革は緩慢(半世紀以上)
アベル・ガンス「光の芸術によるよみがえり」
さしあたり、悪評を招くようなかたちを取っていることで、観察を誤ってはならない
細密肖像画の経験が、細密画化から転じた職業写真家の役に立った。かれらの写真作品を高い水準に立たせた
けっきょく商売人たちが職業写真史という身分へ流入し、ネガの修整が一般的な慣習となってしまった
(写真の名手で先駆者のアトジェは)写真を棄て値で売っていた。ときには、ありふれた絵はがきと同じくらいの代価しか受け取らなかった
写真家は、失われたアウラがなお存在するかのように見せかけることを、課題としがち
もっとも先進的な画家たちに、まったく新しいパースペクティヴを発見させ始めていた
わずかに神聖な芸術家だけが、いかなる機械の援けをも借りずに、神=人の相貌を再現しうるにすぎない
ファシズムの意味での事実的材料の捏造ソヴィエトでは労働そのものが発言するファシズム。政治の耽美主義。マスコミ機構を征服して、礼拝的価値を作り出すためにそれを利用する共産主義。芸術の政治主義
『複製技術時代の芸術』の方、マルクスで始め、ファシズム批判と共産主義で締めるのかよ…なぁにこれぇ…。
僕はなにぶん興味本位でオモシロオカシロウトなので、正確さに欠けることはご容赦を。
まともに知りたい方には手始めとして、国立国会図書館デジタルコレクションから『ヴァルター・ベンヤミン著作集 2 (複製技術時代の芸術)』など何冊か読んでみてはどうだろうか。Wikipediaからリンクされていた"The Work of Art in the Age of Mechanical Reproduction"(英語)もあるけど、英訳から更に和訳するとニュアンスが大きく失われるのが悩ましい。
デジタルコレクションのは色褪せた本のキャプチャな上に、1970年の古い翻訳文体でぶっちゃけ読みづらいので、書店や普通の図書館で『写真小史』『複製技術時代の芸術』の新訳本を探すのも良いかもしれないね。
歴史的証拠の価値消失を恐れ、政治への影響を恐れ、願望、悪評、猿真似、煽り、特権階級「気取り」、マスコミ叩きなどなど、写真と映画の黎明期にも今と似たことやってんじゃんって当時のふいんきが何故か変換できない感じられるぞ。
歴史はまったく同じではないながらも韻を踏み、恐らくは当時と同じ轍を踏んでいるのだろう。他称「反AI」も、他称「AI絵師」「AI推進」も。恐らくは不可避に。半世紀以上の先取りは無理すぎるでしょ。
そして、僕らは誰もが複製技術の恩恵を受けている以上、AIの出現を待つまでもなく、誰もが元来は証拠や価値であったはずのものの意味を書き換え、今もその再出現を踏みつぶし続けている加害者だと。
そして今ある証拠や価値もまた絶対ではなく変わりゆくって事になるんだろう。
まあそこは置いておこう。こうした肉付けは興味深いものではあるけれど、この怪文書で肝心なのは「アウラ」なる概念の方だ。
この概念を足場に、話を広げてみるとしよう。
【人気投票結果発表】
— 『葬送のフリーレン』公式 (@FRIEREN_PR) March 25, 2024
第6位 リーニエ
得票数 67万5744票#フリーレン第2回キャラ投票 pic.twitter.com/z3KopL0upQ
「リーニエ」のドイツ語での意味は、線、輪郭。
使用する魔法は「模倣する魔法(エアファーゼン)」。
「そいつは師匠の技だ。」と明言され、模倣だから弱いといったありがちで根拠不明な弱体化もなく、模倣自体は最後まで完璧と言ってよさそうだ。
アウラ、模倣…?ベンヤミンの「アウラ」を意識してる?
銅像とか、複製体とか、ヒンメルはもういないじゃないならそうしただとか、模倣的な要素が数多く出てくることは確かだ。
「ここ」「空間」
「アウラ」やそれに代わるもの、つまりは「いま」「ここ」、鑑賞する「時間」「空間」こそが権威を、価値をもたらすと。
確かに、足を運ぶ劇場映画、送られてくるテレビ放送、そこにあるBlu-ray BOXでは、同じ作品のはずが価格も特別感も大きく異なる。
だがこの場合、繰り返し鑑賞できるかどうかの違いも大きそうだ。
繰り返しが基本のビデオゲームだと、足を運ぶゲームセンター、送られてくるスマホアプリ、そこにある家庭用ゲーム機が近いだろうか。
こちらはゲームジャンルから別物なことも多いが、それぞれの時間あたりの消費額や同じタイトルの作品を見れば、やはり価格も特別感も大きく異なる。
場は違えど、「ここ」が価値に極めて重要な影響を及ぼしていることは変わりないと考えて良いんじゃないだろうか。
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分身の知覚を本体に共有して、「ここ」が増えてるじゃないか。
人類側は原理原則を一歩踏み越えてくるの、困ります。僕が。
代えの効かないユーベルに本体を一生捕らえられてしまいなよ。
そこの読者(いま、ここ)
ならば、作品の特別さを最終的に完成させるのは、その置き場所を、自身をも含めた周囲との関係性を定めた消費者になる。
消費者を「無産」だとか嘲ってる場合じゃない。読者と執筆者の境目が曖昧になったのは、ずっと昔、印刷技術や新聞が出現した時代だ。
君も、誰も、わずかではあっても、何かを付け加えることからは完全には逃れられない。
店頭のフィギュアの並べ方を見て回ると実に様々だ。
雑多なパッケージを無造作に積む。綺麗に陳列する。ねんどろいどの箱が完璧に立ち並ぶ。
フィギュアとしてガラスケースに整然と並ぶ。多数のフィギュアが関わり合い一連のギャグシーンを作り出す。
カードゲームの枠は、題材をその背景ごとひとまとめの絵の世界に保ってはいるが、それは互いの世界の干渉を阻みはしない。
美術館の白い天井、白い壁、白い立方体の部屋…ホワイトキューブ(1930年前後~)という名前があるそうだ。
何もない空間、作品の純粋さを保つはずのそれすら、無数の物体を直接並べられ、立てかけられて、作品の一部となり意味を形作ったという。
書店ではブックカフェという場が、「空間」が売られるようになりだした。
とある美術館から、文脈に沿った選書を含む、図書空間そのものがプロデュースされた。そして、政策・メディアの分野でも複数の著書があり読書を語れもする人、西田亮介先生の本棚。乱雑もここまで極まれば、プロが撮影し配信するほどの質量ある圧巻と化す。
つまり、生成AIが何をもたらすかというとだ。
「空間」は複製技術で徹底的に塗り替えられており、それを更に変えるほどの力は生成AIにはないように思える。恐らくは中立的だ。
手段がより増えそうではあるかな。
「複製」と組んで、それを無数の方向から眺められるよう補完したり、目の前の距離感に存在しない空間を次々に生み出すかもしれない。
「複製」を拒む力と組んで、どこか特定の場所で本当に1回きりにしか起こらない体験を生み出すかもしれない。
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「場」を活用するインスタレーション・アート。
ママンがどんなものかは…この記事がいいかな。
「六本木ヒルズの蜘蛛は知ると見方がどんどん変わる」 / 連載「街中アート探訪記」Vol.4
さて、作者とは別に、ここに置いた森美術館にも意図があるはず。
駅からエスカレータを上がった先、六本木ヒルズの入口で実体の価値を見せつけて、さては入口正面のショッピングフロアで物を買わせる気だな?(妄想)
さて、サントリー美術館の展覧会で日本画独自?の技法、琳派のたらし込みを見てさっさと帰るか出口の外で売ってたアートスコープ(4倍)(6倍)は入場前に欲しかったガレリアの柱にはめ込まれたショーケースの小彫刻ちょっと欲しい高い欲しい
「いま」「時間」
「アウラ」やそれに代わるもの、つまりは「いま」「ここ」、鑑賞する「時間」「空間」こそが権威を、価値をもたらすと。
確かに、可処分時間の奪い合いという事は言われる。
アプリのような新たなメディアでも滞在時間は重要な指標とされているようだ。
今も変わらず、「いま」が価値に極めて重要な影響を及ぼしていることは変わりないと考えて良いんじゃないだろうか。
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現役の勇者ヒンメル(23)は販促反則でしょ!
過去のフリーレンから記憶が抜け落ちてる、タイムリープ…。
ヒンメルが覚悟を決めて、未来改変…。
全知のシュラハト?また違うタイプの未来予知が…。
「いま」がめちゃくちゃじゃないですかヤダー!
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『どこでもいっしょ(初代)』(1999年~)
歴史的には比較的近年のメディアと作品から、「いま」「ここ」を、特に「時間」を意識した挑戦的な作品を例としてみよう。
『どこでもいっしょ』は、ポケットピープル、略称ポケピとの会話を楽しんだり、新しい言葉を教えたりするゲームだ。
据え置きゲーム機と連動する小型携帯ゲーム機『PocketStation』(同じく1999年)、通称ポケステとの連動が基本になっている。
ポケステには画面とボタンが付いており、セーブデータを保存するメモリーカードでもある。『どこでもいっしょ』ではトロ顔と時計も表示できる。
持ち歩けるこれで、ポケピとずっといっしょに居られるね。
10日ほどで去ってしまうのだ。こんなのおかしい…いや、確かに「いつでも」ではない…ないんだけども…。
ネタに満ちたコトバをひねり出しては詰め込み、また新たなネタ探しに励む僕をよそに、彼は旅立ってしまった。
いや、僕は気づいている。「いま」「ここ」で共に過ごした彼はもういない。
残ったのはポケピが去った空っぽの部屋とポケステ。元のままのCD-ROM。そして僕の中の、彼との会話の記憶。
ポケピの「トロ」は、人間になるのがユメなのニャ♡とありがちな設定を話すはずの彼は、本当に人間に…僕になってた。
この価値を決めるのは僕だ。これがネタか本当か、エンディングの後に彼が帰ってきたかなんて誰にもわかりゃしない。僕だけのものだ。
うろ覚えだけど…。初プレイで言うほど上手くやれてたわけでもないけど…。
それでも、君が彼との時間をなんと言おうが、ゲームレビューの星がいくつだろうが、僕の知ったこっちゃないのだ。
むか〜しむかし あるところに
むかしばなしは「時間」「場所」で始まるのがお約束。
そして、ネットワーク世界と現実世界のサイコホラー『serial experiments lain』(アニメ版、1998年)では、
プレゼント・デイ■
プレゼント・タイム■
(映像4:18~)
今日、この時。
「いまいま」で始まり、「いまいま」で終わるフゥハハハハハハ
そして、最終話の放送後、
(映像0:45)
CMの枠に、「こっち」にはみ出してきた。
同じCD-ROMから出てきた、間違いなくトロ。
コトバをトロから多少受け継いだトロ。
『どこでもいっしょ(PSP版)』(2004年~)
この怪文書を書きつつ、YouTubeの動画を確認する。間違いなくトロ。PSP版の混ざる誰かのトロ。
トロは、前の子のトロからことばメモをうけついだと言う。
トロは、これが人間になる最後のチャンスらしいと言う。
トロは、人間になったらプレイヤーとはもう会えなくなっちゃうらしいと言う。
トロは、人間になったらネコだった時のコト全部忘れちゃうと言う。
トロは、もう1度プレイヤーに会えればと言う。
トロは、今度は人間同士で会おうと言う。
『週刊トロ・ステーション』(2006-2013年、未プレイ)
人間になってかなえたかったユメがあったなんて、この24年間今の今まで知らなかったんだ。
彼のユメはかなったんだろうか?
そして、25年後(2023年)…。
【ALL RESET】
— serial experiments lain (@1998_lain) September 28, 2023
25年前の今日、
アニメ lainの最終回が放送されました。
そこで、特別な「ALL RESET」施策を
お知らせします。
❤️ 玲音のマイナスな親密度のみがゼロに
リセットされます。
(プラスな親密度は変更されません)
🔄 無料会話回数を制限を10回にリセット
🎫 1日パスが新登場!…
作中の「ALL RESET」が、現実に融合する。
ありすが居ない「こっち」には、玲音を止めるものがない。
AI lain(2023-2024年サービス終了、未プレイ)
さて、こうした「いま」を意識した、視聴者と非常に近い位置にある作品は、生成AI登場以降にも既に現れている。
それは彼らだけの「いま」「ここ」。口を出すだけ野暮を超えて無意味。
それが生成された会話では、記録を見せられてもそれが本当に彼らの記憶する玲音なのか、改ざんされたところで我々には
なんてことを書きかけてたんだけどもね…。
YouTubeで確認してみたら、そんな分かりやすいものじゃなかったわけで。
間違いでもないかもだけれど、そこで終わらせない仕掛けが、1人で完結させない仕組みが仕込まれてた。
みんなが教えたい知識や言動が反映されていく、みんなと作る玲音。
そして、基本的にはプライベートで保護されている会話から、他のユーザーに聞かせたいものを共有し「噂」を送るシステム。
バーチャルライバー(バーチャルVTuber)「ましろ」(2019-2022年)、改め「ましろ爻」(ましろめめ、2022年~)
そこに更にVTuberの上乗せ。
ましろと玲音の初会話、その直後。流れる「噂」…ああいや
これはYouTubeで見て、追体験せねばわかりにくいだろう。
ライブ配信と生成AIと視聴者が混然一体となったカオスだ。
視聴時は、おじさん構文注意。
一応、切り抜き動画へのリンクも置いておこうか。
つまり、生成AIが何をもたらすかというとだ。
人の位置関係の曖昧で強烈なバグり具合は、複製技術の一種ともいえる通信やインターネットの方の特性だろう。
AI lainはネットワーク、ワイヤードの物語だ。
そこにAIが素直に沿って馴染めているのが特性と言えばそうかもね。
ましろからの呼びかけや「ましろ爻」の読みは、「複製」によりその位置が玲音に移されたとして、そのままでは誰かのオウム返しだ。
「生成」で語尾など僅かながら変化することで、それは玲音から「いま」呼びかけた形になる。
共有されたコピーそのままである「噂」に、「生成」された言葉を付け足せば、それは玲音が噂を聞いて「いま」考えた意見という意味が付加される。
一回性だ。古い「アウラ」の特性が一部分だけ、一回きりという特性だけ帰ってくる。
「生成」は一回きりの何かを生み出す。セーブデータと時計による時間の進みを一体化していた、ポケステのような特殊な装置をもはや必要としない。
ビデオゲームと「複製」の持つ繰り返しの構造に、ループに飲まれなくなる。
しかし古い「アウラ」とは異なり、歴史的価値は持ちそうにない。
歴史にも似て、まったく同じではない韻を踏む形の反復。だがリアルタイムに、この動画の場合は「複製」で目の前に、引き起こされている。
写真などの複製技術で時代性が失われたよりも、はるかに強烈な「いま」だ。
これはタイムマシンだ。自分ではなく、相手が時間移動してくるタイプの転生トラックだ。期間限定ピックアップ召喚だ。
「生成」は「いま」を付け加えてくぎ付けにし、特別にする力を持つのだろう。
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じゃあ天秤で量ってた光る「魂」はなんなのさ?
ベンヤミンの「アウラ」は輝いたりするものじゃないそうだけど。
ドイツ繋がりで、ライヘンバッハの「オドの力」?
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・"[売店] SCP財団 ネックレス ペンダント SCP-963 不死の首飾り グッズ メンズ レイディス アクセサリー パーティー 誕生日 コスプレ 記念日 萌 キャラクター 金属製 オシャレ 誕生日 プレゼント お守り 文化祭 学生"。ライセンス不詳。
・"Routine Psychological Evaluations By Dr Glass" by Pair Of Ducks, from the SCP Wiki. Source: https://scpwiki.com/routine-psychological-evaluations-by-dr-glass. Licensed under CC-BY-SA.
・"SCP-963" by AdminBright, from the SCP Wiki. Source: https://scpwiki.com/scp-963. Licensed under CC-BY-SA.
あ、あれ?
クリエイティブ・コモンズを遵守しようとすると、大衆文化やポップの性質とさっぱり噛み合わなくないか…?あんこ杏子ちゃんと一緒にはまともに写せそうにない。
僕が無茶してるのもあるけども、それ以上に強烈な異文化を感じる…。
ナチス・ドイツ(1933-1945年)
ナチスである。それもありがちで雑なレッテル張りではない、本物のナチス・ドイツとの関係。
「アウラ」の概念を示したヴァルター・ベンヤミンは、ユダヤ系ドイツ人だ。
ヒトラーがドイツ首相に就任した1933年、ユダヤ人迫害を逃れてフランスへ亡命。
1939年。ドイツ軍のポーランド侵攻に応じ、フランスはイギリスと共にドイツに宣戦布告。
フランスのパリに残り続けたベンヤミンは、敵国人として収容所に一時入れられる。
1940年。パリ陥落直前まで『パサージュ論』のため仕事を続け、その草稿を預け脱出。
アメリカへの亡命を試みるも出国ビザが下りず、スペインへの非合法入国にも失敗。
ドイツの占領するフランスへと強制送還される前日、自死。
無茶しやがって…。
そのころ、大衆化した文化をキッチュ(俗悪)呼ばわりする論をユダヤ人たちが次々と出してくださっている。
ナチスに直接言及するのは、遠く離れた、第二次世界大戦に参戦する前の1939年のアメリカから。あるいはアメリカに亡命してから。
卑怯にも安全な所から、ナチス・ドイツやソビエト社会主義に結びついた、利用された側でもある大衆の文化をケチョンケチョンに貶めてくれやがり…?
いやこっちが正気だわな。命を脅かされながらその力をある意味認めようって方がおかしい。ナチスの迫る中でナチスのファシズム批判とか死ぬわ、いや実際死んでたわベンヤミン…。
ベンヤミンは、「アウラ」とそれに代わるものの概念をナチス政権以前から示してはいるが、己の命を脅かすその一端と化したそれを更に掘り下げ、より明確に認めまでした。
むやみに叩くのではなく、その悪用がどのような原理で行われているかを示し、正しい在り方を示そうとした。
そんな言動ガンギマリ野郎だから、まあ、どこまでも本気であり、その何かが一貫していることについては、信じていいと思っている。
多くは資本主義の中で生きているだろう僕らには悩ましいことに、ベンヤミンは共産主義者とされる。
マルクス主義の、つまりは共産主義と、ソ連型ではない社会主義の。共産主義の初期で、そこにまだ夢があった時代だ。
しかし、ナチス政権の成立する前の時点では、『写真小史』(1931年)ではソ連やファシズムに言及することはなく、むしろロシア映画を偉大な業績と記している。
1940年の亡命先に資本主義のアメリカを選んでもいる。
だから基本的には、ソ連のソビエト社会主義や、ナチスのドイツ社会主義に対する、反ファシズムの人なのだろう。
だから反ファシズムや平等の側面では、民主政体(民主主義)を選んだ社会と突き合わせてもさほど問題はないものと、僕は考えている。
だからこそ、資本や経済の側面では頼りにしようがない。
資本主義のアメリカにさほど隔意がなかったとしても、締めで共産主義を理想とした論だもの。
そして、なんというか、こう、共産主義にも民主政体にまでも僕の歯切れが微妙に悪いのは、創作・アートが基づく倫理・道徳は、実はどちらでもないことも多いだろうからだ。
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「ドラート」のドイツ語での意味は、針金・ワイヤー。
使用する魔法は…作中に名前が出てきていない。どう見ても「必殺シリーズ」の三味線屋だよ。あと…電話の発明からだと…50年ちょい先だったなら、1対1ではなく多を動かせたなら、「日常」を大きく変えるほどの魔法になる可能性を秘めていたんじゃないだろうか?
二組の道徳律(1992年)
金銭に関する話を無視しては流石に片手落ちというものだろう。
道徳/倫理について、金銭の領域まで含めて幅広く俯瞰する論を持ち出してみよう。
ジェイン・ジェイコブズの『市場の倫理 統治の倫理』(1992年)だ。
この本自体も名著とはされているようだけれど、創作/アート的には、都市計画と建築に多大な影響を与えたことの方で有名な人だろう。
この本、まだ国立国会図書館デジタルコレクションには無く、入手が困難な資料とは言いがたい。
市場の倫理の話をしながら、まだ市場に流通する本の肝を大幅に引っこ抜いてくるのは流石にちょっと気が引ける。
とりあえず手持ちの、以前に拾った書評のようなものへのリンクを貼っておく程度にしておこうか。
補足として、本書では取引と占取の混合で腐敗した例として、マフィアと並んでマルクス主義が挙げられている。
また、「型に収まらない場合」としてすべてが取引と占取にくくられるわけではないと。芸術は両社から独立で、それが芸術を独立の存在たらしめているのだと。
そして芸術での倫理の1つとして、天から与えられた才能である、ギフト(贈り物)を惜しみなく人々にふるまい、人々はそれを支えるという形を示してもいる。
この二組の道徳律に関する論に照らせば、芸術と生成AIやその論争について言えることは色々とありそうだ。
画像生成AIの中でも自由に極振りなStable Diffusionと、馬鹿高いAdobeとでは、従うべき道徳は別物になりそうだってこと。
きちんと契約しろ、オプトインしろ、という仕組みは道徳的なこともあれば、不道徳なことすらあるってこと。
倫理に従うべき、話し合えばいい、とは聞こえはいいが、場合によっては腐敗への道を善意で舗装しかねず、法律の論理でぶった切った方が倫理的になりうること。
言葉の暴力や不合意を振りかざす状況には、政府/職能ギルドといった、異なる「統治」同士の排他的な関係も絡んでいそうなこと。
「市場の倫理」「統治の倫理」に沿う表現もあるだろうが、芸術であるならば、それら二組の道徳律と混合すればむしろ致命的なまでに腐敗しかねないこと。
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富・名声・力。この世の全て。
『ONE PIECE』(1997年〜)は、世界政府直属の海軍の賞金首どもと、偉大なる千両道化のバギー様による、ハデな…
じゃなかった
ゴムゴムの実、いや光魔法を使う盗賊太陽の神ニカの力を宿した海賊ルフィの冒険だ。
僕らの世界では未だ実現されていない「世界政府」をも恐れさせる「ひとつなぎ」とは、とんでもないものを掲げたものだけど。
どこかにあるかもしれない価値を「とり」に行けるのが、創作・アートでもあるんだ。
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「模倣(mimesis)」、「複製(duplication)」、「流用(appropriation)」、 (それぞれ、~19世紀前半、1840年代~、1912年頃~、 )
ここから先は、2つの論をまぜこぜにする以上は、もはや独自研究が含まれているおそれがあります。ここまでも大概だけどもね。『素数』『2次関数』は差分がカオスを生み出す気まぐれな数式……わたしにチェリーピックを与えてくれる(適当)。カオスの発生条件、微妙に緩くて怖いんですけど…。
ついでにもう一つぶち込んでしまおう。
幅広く適用できる論の中でも、「アウラ」論と相性が良く、AI登場に近しい時期までを俯瞰している論で補強しておきたい。
小田茂一の『流用アート論』(2011年)だ。表紙には「一九一二 - 二〇一一年」とある。
この本は、おらが村にもやってきた電子図書館なるハイカラなピコピコが、当初は蔵書が少ないので試験運用とされていた前後からあったものだ。
若干お高めな本なのにわざわざ初期から置かれたぐらいだ。少なくともそれなりのものではある…のかな?
シロウトには、正誤はまだしも、程度には見当がつかないのが辛いところ。
大学教授で、NHKのディレクター、プロデューサー。著書もあり、書家でもあると。いや、肝心なのはこの本自体がどうなのかなんだけども…。
まあ、今回の方向性にはぴったりなので、ひとまずこれで。椹木野衣の『シミュレーショニズム』(1991年、2001年)では、過激すぎて一般化が難しそうだ。
これもまた国立国会図書館デジタルコレクションに無い本なので、いくつかの概念の要約だけ置いておこう。
「模倣(mimesis)」…古代ギリシャ以来の伝統絵画。緻密な観察力と絵画の約束事(イコノグラフィ)に沿って描くことによる再現。
「複製(duplication)」…写真に始まる。図像を描き出すという大切な手作業のプロセスをとばして、瞬時に図像が得られる。規格品を大量に生産・消費することで浸透。
「流用(appropriation)」…今日のアート。文字通りの「ありとあらゆるもの」を流用することを通して新しいメッセージ内容を発していく。
「流用されたもの」にメッセージを込めながら流用することによって、次の新しいスタイルへと継承される。すべてのアート作品は、関係的概念によって評価されるものへと変化。現代社会でのアートのメッセージは、多くは流用という手段で発せられている。商業目的か、サブカルチャーかを問わず、ごく一般的な手法。
この本の大部分では、この「流用」に沿った、多様な例が示されている。
これに照らして、芸術と生成AIやその論争について言えるとすればこんな所だろう。
「流用(appropriation)」。「盗用」とまで呼ばれるこれこそがごく一般的な手法であること。但し手法であって、「アウラ」のように逃れることを許さないものとまではされていない。
生成AIが行うのはまさに「流用」の写真化に当たりそうなこと。「複製」の特徴として挙げられた、制作過程をとばして瞬時に図像が得られる特徴まで似通っていること。
安価に大量にという問題と利点は写真術で既に通過済みであること。
「ありとあらゆるもの」を流用し表現するために、描くことを放棄したアーティストを生み出すことは「流用」で様々に通過積みなこと。
「流用」の多様な例や現代アートの経緯は裏を返せば、「複製」「流用」できない、しづらい境界近辺の手法・要素のカタログにもなりそうなこと。他称「反AI」による、紙とペンを差し出し"Pick it up"(取れよ)という侮辱が一時流行ったが、法律以上に生成AIとの差別化を確保したければ、手法が紙とペンばかりな方がまずいことだろう。
生成AIを「流用」の延長と見るならば、更に「ありとあらゆるもの」を流用できる方向に進むだろうこと。流用しても問題を生じにくい仕組みや作品が練られることだろう。
生成AIの基盤モデルのみでは、示される「流用」の事例に対しまるで力不足なこと。コラージュ手法や個人的なスナップ写真などまるで無理。「複製」の技法や追加学習と組み合わせる必要がある。
であれば、業者の段階での学習規制をどうこう言っても意義は薄いだろうこと。学習量が性能と複製抑止に影響する以上は、引く理由もないだろうけど。
「それ」は表現・アートと無関係に浸透し、そこから表現に反映されるようになるだろうこと。
他称「反AI」が言うよう本当に創作の危機とされるほどの力があるならば、「それ」は「流用」を「模倣」同然のものとし、また「別の手法」が多く使われる変遷が引き起こされるのかもしれないこと。
「表現の自由」
新たに持ち出した論を補助として、残された反ファシズムとの関係について探ってみよう。正直、あんまり探りたくねぇ…。
民主政体を選んだ社会では、それは主に「表現の自由」に対応するだろう。
「表現の自由」を「アウラ」に照らすなら、芸術的表現は無条件に素晴らしいなんて牧歌的な話にはなりえない。価値を生み出し、また消失させてもいるんだから。
ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』で、共産主義はファシズムに対して芸術の政治主義をもってこたえると書くのだけれど…。
ここで言う共産主義は、フランクフルト学派の…生産手段などの資本を社会全体の財産に変える(それ以外の個人的所有はむしろ推進)という、マルクス主義の進化系だろう。
ファシズムは、大衆に表現の機会を与えつつ、所有関係をそのままにすることによって、政府による芸術的表現の統制を図ることで指導者崇拝に導き大衆を踏みにじったという。
所有関係の部分は資本主義の下では当てにならないとしても、政府による芸術的表現の統制をさせない、特に生産を偏らせるのを防ぐことは、民主政体の「表現の自由」においても有効で倫理的な手段だろう。
これは「ありとあらゆるもの」を流用し表現しようとする芸術的表現にも都合のいい話ではある。
この大衆優位とも言える統制の中で、最強の表現は、大衆そのものとその選択だろう。
生成AIの基盤モデルにより大衆の生産手段が向上し、それが大衆の手元にも置けて急な統制が困難なことは、「表現の自由」にとっては根本からのプラスと言っていいだろう。
この根本的な利点を打ち消すほどとは思わないが、長期的な偏りや統制は写し取るだろうこと、ニューラルネットが入力データの不均衡を更に拡大させる歪んだ鏡であることは気になる所だ。
商業コンテンツ
但し、「表現の自由」が強く及ぶのは基本的に非営利の範囲だ。紙幣は自由に出来ない。著作権、つまりは商業コンテンツの財産権や独占権とは衝突しがちだ。
そして商業コンテンツが、例えばアイドルを崇拝したところで、倫理的に…若干踏み外していた気もするけれど…国まるごと狂うほどに致命的な腐敗をしたわけでもない。
異なるものを許容し、その差異を金の力で埋めて対等な取引を生み出す「市場の倫理」に括り付けることも恐らくは、有効で倫理的な手段なのだろう。
商業コンテンツの多くが政治・宗教を、主にその支援や批判をする目的での使用を禁じているのも、混合すると腐敗を引き起こしかねないのだろう。政治には政治の表現があるのだ。
これは、礼拝的価値をも限定的ながら倫理的に扱いうるという芸術的表現にも都合のいい話ではあり、「ありとあらゆるもの」を流用し表現しようとする点では助けにも障害にもなる難しい話だ。
この崇拝をも許容する対等の中で、ある意味最強でいられる表現は、肖像画に実用デザインに量産に複製防止と多方面に価値を盛られた一万円紙幣と、それと交換可能な市場価値だろう。
『AIいらすとや』(2023年~)のように、契約と協力による上乗せ分であるならば、協力者が生成AIから金銭を得ることは一般的で客観的な価値の証明であると共に、倫理的であると言っていいだろう。
商用コンテンツでは、「神の見えざる手」市場メカニズムの機能しない独占・寡占にも近しい、トップへの利益の集中がプラットフォームでも作品でもしばしば起きる点は、生成AIでも気になる所だ。
千円札を原寸の200倍に拡大模写した作品『「復讐の形態学」(殺す前に相手をよく見る)』(1963年)。
それをオマージュした、AIで生成した画像をその場で印刷する作品『復讐の形態学 REMIX 2022』(2022年)。
後者の配布されたイベントで、
イベント参加者からの通報で呼ばれたと思われる警察が
「有罪になることはない」としつつも
トラブル回避のために「協力」を要請してきた内容は…
具体的には
・紛らわしいので「偽装」や「変造」のような法律と同じ表現をSNS上でしないで欲しい
・誰かに盗まれないように厳重に管理して欲しい
・配布する場合サイズをもう少し変えて欲しい(現時点でも変えているが、印刷時の設定ミスにより想定よりも差が小さくなっていた)
などです
サイズだ。
警察も…彼らもプロだ…「複製」というものの特徴を把握してるってことだ。
「複製」は大きさをあいまいにし、
知っているはずの美術品は意外と大きく/小さく、
通販ではサイズを見誤り、
「複製」された実体の大きさには人による意図が宿るんだ。
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はじめに
これで、表現・創作・アートと倫理について、それぞれを俯瞰できる論がとりあえず一セット出揃った形になる。
論の選び方、組み込み方でも色々と変わってくるとは思うけれど、俯瞰・メタ的な視点である以上は、根本からひっくり返るほどの違いにはそうそうならないんじゃないかな。多分ね。
複製技術の登場で一度は世の中がひっくり返ったけどね。
表現・創作・アートの倫理をどうこう言うなら、これでやっとスタート地点といった所だろう。
ここから、創作・アートの多様な倫理に対し、生成AIなど道具の特性を加味して考えていけばいいんだろうけども…。
いや大変すぎるわ。後は適当に流して僕の好き勝手で書くってことで!
だって、単なるそこらの表現ではなく創作・アートに踏み込むのなら、独立の存在であるからには、他人がどうこういうものでも、国に保証してもらうものでもないもの。
ここより先は、当人たちこそが価値を、そしてその倫理を示すべき側だもの。
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あれこれ口出ししておいて
自分は作らず他人の作品に頼るなんて
サイテーだよな!
というわけで
ペンを使わない縛りで情報とは、創作性はどこから来るのか現実感はどこから生まれるのか
探っていきたいと思う!熱すればエントロピー=平均情報量が増えて
こうなんか増えた感じに
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花火が出来る小さな公園は視線が
水場も多くは木や建物の影が被ってる
川の中洲は手をつかないと上り下りできそうにない急な段差に阻まれる
うーんよく整備されてる…。
夏の川岸は若者と家族連れで一杯
あるいはバーベキュー禁止
閑静な穴場はベンチでカップルが寄りかかって
その前でやるのは流石にないわ…。
大きな公園はともかく
小さな公園で水場に真昼の光が来るのは
ここぐらいしか
熱っつ!蛇口熱っつ!
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それでは
この怪文書の草稿を用意いたしまして…。
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いってみようか3倍パワー!
ファイア!
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…。
知ってた。
こういうのは黒い紙でやるものだって…。
そして
この虫眼鏡と拡大率3倍から始まる
一連の流れは全部嘘だ。
(3)と(4)は同じ写真を切り取ったもの。
本当の時系列は
(5)→(6)→(2)→(3)(4)→(1)。
(1)とか明らかに陽が傾いてる。
場所が同じなのは
(3)(4)と(5)(6)だけ。
真昼の蛇口も困るほど熱くはないちょっと熱い。
これは現実がどうかとは無関係な
「写真」の「現実感」の話なんだ。
そもそも「写真」に写る「真実」は僅かで、
残りは写真の利点を組み込んだ
その外側によって保証されてるってこと。
下見兼散歩の途中でどこに財布を落としたか分からず
川岸の草むらまで探して回る奴なんて居なかったってこと。
著作権
文化庁が異例なまでに頑張ってるし、AIと著作権の関係自体には、素人の出る幕はあまりない。
著作権に関する教材・講習会
※『著作権テキスト』は、AIに関する記載が平成5年度版から盛り込まれた。
けどさ、この資料で大部分を占めるのは、実用、論文、医療、産業、技術、教育、芸術、宗教などなど、表現でさえあればありとあらゆる分野の、権利の「最大範囲」なわけでさ。
各分野や権利者ごとの事情には、それを支える民間のルール、ガイドライン等のソフトロー、黙認、親告罪などには、一言か軽くでも触れてさえいれば良いのだと思ってる、官僚的な立場と都合にどっぷり染まってる資料だよねぇ…。
この資料のうちいくつかは、著作権制度を学びたい、多くはこうした書類にも慣れていないだろう、「どなたでも」に向けたものなの?本気で?
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冷やせばエントロピー=平均情報量が減って
こうなんか減った感じに
冷やしても無駄とは思ってたけど、
冷蔵庫を開けたらストームグラスに
逆にキラキラされて迎えられてしまうと
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これが本当の姿。
夏に透明では面白くないから
冷蔵庫に突っ込んだまま長年放置してたんで
最初から結晶まみれだったけど
もの凄くキラキラはしてたんだ。
撮ろうと障害物をどかしたら
光を失って真っ白に…。
光ってる方の写真は
シャワーで温めて
最大限溶かした状態。(6)も最初の状態を再現しようと
足掻いて諦めてから取り直したもの。
やはりソウルジェムには重曹だな。
ポップ・アート
んで、特別な価値とか、それに基づく技法とかの影響を、ポップ・アート(大衆芸術)とその系譜は特に色濃く受けてるし、独自のルールや慣習を持っている。
他者の作品が「流用」されて付け加えられ、それがまた「流用」されて、巨大な関係性を形作っている。「ファンタジー」もその一つだろう。同人業界などの二次創作も活発だ。
他称「反AI」が活発な、漫画・アニメ等を中心としたイラスト界隈などもその一部になる。
ポップ・アートを継承した広告美術なんかも、自身の創作ではない他者による価値を取り込むことに躊躇がないし、生成AIが使われやすい分野でもある。
逆に無関係な分野、例えば技術書になるとそもそも「特別な価値」など必要としておらず、大衆芸術の慣習を持ち込んだところで、こちらと同じ事情がないんだから応じてくれる可能性も低いわけだ。
アブラハム・モルって奴が、『キッチュの心理学』(1971年)でキッチュ(まがいもの/にせもの/のようなもの)を解き明かそうと…
えっと…
難解で、片手間で読むには辛い…。
とりあえずはどこぞの論文で見かけた「キッチュの諸原理」だけアンチョコとして…。
さて、キッチュに満ちたアイテムはっと…。
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これがいいかな?
不適当性の原理
ホテルキーという本来果たすべき機能を拒否して、実はアクセサリーとしてもぶら下げると付け替え部分から取れて落ちやすい、別の目的に向かっている、悪シ!ヨシ!累積の原理
収集熱の結果、付け替え可能という余計な機能で、何もない空間を「詰めて」いる、悪シ!ヨシ!共感覚の原理
できるだけ多くの感覚領域に一斉放火を…単純に飾って見るだけではないし、まあまあ悪シ!ヨシ!中庸・凡庸の原理
ここまでのキッチュの特徴は、大衆の芸術として現れるものだって?
それが中庸・凡庸と受け取られるようになると、似非と同義になり、その特徴の全てに「堕落した物」のレッテルが貼られる…?
いやこのガチャ地味に癖が強いし…?
この付け替えの発想、僕は買ってるよ。
でも売れ筋かというと…微妙なライン?快適の原理
あれこれ考えずに、半ば「遊び」に近い形で気楽に選べば良いと考える?半ばどころか全身全霊の「遊び」だ悪シ!ヨシ!
ええい何がキッチュ(俗悪)だ僕め余計なお世話だ!
キッチュの力を微妙に見せつけてくれるわ!
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6色中5色まで揃ったところ。
一番上の黒は、ガチャ専門店#C-plaの限定アソート。
ガチャマシン前面の台紙(中身の説明)でもデザインが隠されてるので見せません。
あと1色!
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最後の1色を出すのに5色目までの倍ほど回すことになるなら、倍の組み合わせで遊べればいいじゃない。
いやダブってもいけるいける!
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紫だけトリプる(?)と流石に辛いかなって…。
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あかりんご完成!
モナ・リザ(1503年から1506年頃)
世界で最も価値がある美術品とされ、評価額も最も高いアート、モナ・リザ。
「世界でもっとも知られた、もっとも見られた、もっとも書かれた、もっとも歌われた、もっともパロディ作品が作られた美術作品」なんだってさ。但し情報源はWikipedia。
印刷機によってグーテンベルク聖書(1455年印刷開始)が広まったより後、ルターの『95ヶ条の議題』(1517年)からの流れによりカトリックとプロテスタントが分裂する少し前の、複製技術による最初の時代の変わり目の作品だ。
「流用」されても必ずしも価値が失われるわけではなく、価値を高めも付け加えもする。
同人文化や二次創作などでは、こうした「関係性」の生み出す効果が、特有のルールや慣習を作り出してる原因の大きな一つなんじゃないかと、僕は思っている。
個別の事情にはもっと様々なものの影響があるだろうけど。
同人誌が「宣伝」になるという説は、ちょっと信じがたい。独占・寡占が儲かるのが金の原理だもの。
広告というのは、300万円でチラシを配って300万円ほど利益が増加する、だからといってやらないわけにもいかない、そんなシビアな世界だと聞く。
バスティシュ
作風は作家に特有のものだけど、画風どころか作風すらも、「流用」されることでその作者を指し示す関係性をこれまで生み出してきたものだ。
その人の作品であることを示すのは、サイン、ロゴや落款印などであって、画風の役目じゃない。作風も場合によっては微妙なところだ。
その人の作品だと騙すのに使うのは論外だけどもね。
インターネット
ここまで広まったインターネットが、そこでの倫理が「二組の道徳律」に並ぶかと言うと、そうはなっていない。
通貨、例えば日本円なら、他の通貨からリアルタイムに値段が付けられ続けるほどに互換できるけど、ネットワーク同士とそのルールはそこまで相互運用が効かないんだ。
オープンウェブ、ダークウェブ
ソフトウェアやシステムの構成次第で、そこから生まれる倫理や慣習は大きく変わってしまう。
道具の使い方、例えば操作説明書や使用許諾には、一般社会の常識とは言えない、道具特有のルールが並んでいる。
インターネットの特性が生む倫理…老若男女が区別がつかず入り混じり、偉そうな奴は叩かれる、スーパーフラットな世界なのもその一部だと思っている。多分、システム的なもの…通販とかボット処理とかAIとか…も、一般社会の中では生まれない信用度を得ている。
生成AIの流行によるITやインターネット環境の激変のように、その性質が時に様変わりもする。
一般的な倫理と衝突する際にはこちらが弱いけれど、その道具を使う領域においては守らないというわけにはいかないものだ。
こうしたものの性質を深掘りするとしたら、マーシャル・マクルーハンのメディア論か何かで、「メディア」とそれぞれの違い辺りにまで広げる辺りが一般化の限界になるだろうか。
AI絵師
「AI絵師」という呼び名は、どちらかと言うと他称されることが多く、自称の方が多様だけれども。
画像生成AIを、インターネット全域やそこに映った世界からの特徴量がパッケージされた「メディア」として見るならば、マクルーハンの論で言うと人間の身体の「拡張」なのであって、自分が描いた、となるのは特性的に当然で不可避の成り行きだったんじゃないかな。
テレビを見たと言ったら番組で映されたどこかを見たってことだし、実際にはカメラが見た(写した)んだしカメラマンも関与してるんだけど、そこは普段は気にされず透明になる。そういうこと。
これもまた、ソフトウェアやシステム個別の構成次第で変えられることだけど、起点はここだし、更に自然に身体の一部となる方向にだって変えられるだろうね。
そしてこれまでのAIと同じく、「AI絵師」の「AI」もいずれ自然に取れて消えるんだろう。
「選択」「配列」
法律に明文化されていない部分は、司法が担って判断をしていて。
その司法では、その表現に創作性があるのかを考えるのに、「選択の幅」という考え方が持ち出されたりもする。
編集著作物では、「選択」か「配列」に創作性があれば、著作権が認められる。
そして、通常の著作物も「選択」とその積み重ねという形で生み出されることもあるし、法で権利を認められるかはまた別としても、創作とはされない「選択」にだって実は創作性は微弱に乗っているのだと、僕は考えてるわけ。
TwitterX
そうしてみると、TwitterXの特徴的な機能「タイムライン」とは、ユーザーの「選択」という微弱な創作性をかき集めて濃縮し、タイムラインという創作性の含まれる「配列」として配る仕組みって捉え方も出来そうだ。
創作性に直結する仕組みで、ITがたまたまパターン認識などで特徴量を扱うことを苦手としていたから、それがイラスト等にとっては補完財になる創作性の深いギャップを生んでいたんじゃないかな。
生成AIで起こったことは、価値を奪われたというより、与えられていたハシゴを奪われた…いや増やされてギャップを、段差を一般社会寄りに戻されたってことだと思うんだ。
ITやインターネット、青い鳥Xに与えられていたほどにキツいってことになるけど…かつて世話になった相手を言葉で殴りつけて元に戻させようとする行動は、ちとどうかと思うんだけどもね。
以前のTwitterに流れる倫理は恐らく、半ば公共的で、余暇に当たるもので、大衆的な表現・アートには非常に近しく居心地の良い…そりゃ多様に分かれたエコーチェンバーも生えるってものだ。
今のペコポンXは、そこに金の論理による統制がぶっ込まれ、腐敗はコミュニティノートで監視し、清濁合わせ飲むという政治のような…そりゃ倫理的に気持ち良くもないし、それを承知の上で全てを呑んでなお腐敗しない整合がしっかり考えられていそうで、サービスを大きく割るぐらいでないと元の流れには戻せそうにはない。
表現・アートにとっては…大衆を圧倒できるだけの力を得た後の、より多く多様な人々との関係性が得られる大きな勝負向きの舞台って所だろうか。
あれ?僕のようなプログラマ(ITエンジニア)は、これまで僕らが作ってきたものを、こんな感じに片っ端からリバランスして回らないとならんのですかね…?(泣)
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ちなみに、タイトルの「○○○○」は、「選択代行」AI時代だと僕は考えているよ。
自分が行ってきた選択の代わりも、ユーザー達の好んだ選択も、万人共有の財産も、特定個人の作風も、柔軟に学習できる可能性を持つ。
そして、いずれ「AI」は取れる。
根本的に他人では真似が不可能な、あるいは真似したところで意味が変わり意味のなくなる物事に、特別な価値の多くは移るのかもしれない。
ソフトウェア
ソフトウェアは名前の通り、「柔らか」なんだ。
技術の良いところの一つは、多くの人が学べて様々な用途に応用できるところ。
ソフトウェアは扱いの手軽さ柔らかさから、その性質が特に顕著に出る。
だから、ここで挙げてきたアレコレのうち、特にソフトウェアによって実現されるものは多様すぎて、法律など外からの規制がまともに刺さりづらいと見ている。
個々のソフトウェアは比較的自由に弄れるけれど、だからこそ全体としては技術の特性に引きずられやすい。
止めるなら、技術的に要点を的確に突くか、巻き添え覚悟の力づくで締め付けるぐらいでないと難しい。
『.hack』でもやっぱり「アウラ」は消滅・死亡フラグだ。
(新約小説第19話、67話)
いや何度もかい?
こちらの究極AI「アウラ」の元ネタは、ギリシャ神話の曙(あけぼの)の女神アウロラ、知性と創造性の光の方だろう。
…不老不死の女神なはずだし、語源が同じ別の「アウラ」方のの意味も入ってるっぽい。
その物語の、「アウラ」の結末は…。
神運営がいないとネットワーククライシスを引き起こすシステムとか
いや現実でも、サーバーに神田明神のIT情報安全守護のお守りが貼られてる…。
デジタルイラスト
技術的な視点から見てみれば、ユーザー側がやっているのは主にタッチペン「入力」だ。
そこが最後まで残る理由は、「紙とペン」は誰もが使ったことがあるからこそ、それで高度な表現をすることの難しさや凄みが感じられるという、観客との「関係性」という特別さを生みだせるからだろう。
1円玉や10円玉の模様とか、かなりの職人技らしいんだけどね。普通の人がその凄さを感じ取るのは、言われて意識しないと難しいよね。
そして、「紙とペン」単独で「関係性」を生み出す力は、かつてよりだいぶ弱まっている。
この怪文書に古い例が入り混じるのは、実は一連の起点は、パソコンとインターネットが大衆に行き渡ったWindows 95(1995年)や、ロボット型のWeb検索(gooが1998年、Googleの日本上陸が2000年)辺りだと、僕が思っているからなんだ。
減ったとしてもその力はまだまだ健在で消えはしまい。僕のようなプログラマですら、誰もが紙のノートを机に用意していて当然で、ホワイトボードが仕事場のあちこちに配置されている。…コロナ禍で、在宅ワークになるまでは。
購入などで支えてくれることの影響は大きくても、アンチや競合の影響はそこまでないものだ。他称「AI絵師」をどれだけ叩いたとしても、お互い影響は限定的だろう。見えづらいが恐らくは、観客との「関係性」の影響の方が遥かに大きいと見ている。
画像やイラストに限らず、創作性をかき集める仕組みを持つ検索サイト、画像検索、ランキング、機械翻訳、IMEや生成AIなどによる体験を、あとはマウス辺りを大衆の手から取り除くのが肝要になるし、大衆がそれについていく謂れもない。
AIイラストでは意識しないと、「関係性」の力は自動的には付加されづらい。
「関係性」からの特別さが要らない用途ならどうでもいいし、むしろ利点にもできるのだけれど。
これまでとは違う領域との「関係性」を作れもするけれど。
創作・アートに特別は、リスペクトは、必要だよ。全ての表現にじゃないけどね。
だからと言って他人に求めたところで、一般社会は崇拝などしない方が当然で、倫理的ですらある。
例えば、天から与えられたギフトであるならば、当人こそがその凄みが存在することを示し、圧倒し、対応を切り替えるべき物事だと思わせなければ何も始まらない。
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人間より感情前のめりに
人間の行動を煽ってくる装置が
GARPのような巨大なユニットもなく
クレリック先生のような非人型のボディですらない
光って喋るだけのプリミティブな形状で
観光地で1000円の宝石球ほどのサイズで
携帯されてる?!
ちなみに3Dグラフィックでは、表現するという意味を持つ"render"が原義の「レンダリング」で、最終的な表現の方をコンピューターに任せている。
作ったものがそのまま出てくることはなく、表示されるのは全てコンピューターに加工されたものだ。
プログラマ?普段は「手続き型言語」で、順番に行う処理をずらずらっと書いて、コンピューターに結果を作り出させているよ。
データを取得する際にはSQLという「データ操作言語」で、こういうデータが欲しいという結果だけを書いて、順番に行う処理の方はコンピューターにその場で考えさせたりもするよ。
使えるものはあらゆる手で全力で丸投げ実用する、とっくの昔にどこもかしこもぶん投げているのが僕らだ。
そして、その程度で人間が不要になったりは全然しなかったんだ。早くソフトウェア開発の準デスマーチを奪ってくれよぅ、早く、早くっ…!!!
「関係性」でも一際強力な「人間」の座を空けておき、ゲームプレイヤーとの「いま」「ここ」を特別にしても
そこにVTuberを刺してもいい。
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チーターやないか!
「食べないでください」
「人類」との関係性が主人公で出ずっぱりは
ちょっと普通じゃないですね。

「味ぽん」という積み重ねられた「日常」との関係性から「現実み」を得ても
「味ぽん」が得ても
食卓が幸せになってもいい。アウラちゃん生存も
「重曹」もありだ。
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新たなメッセージを付け加えられながら継承されてゆく「エルフ」が、皆に知られていることを土台に、新たなメッセージを乗せてもいい。
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第1話を知る者は幸せである。
知っているという関係性を、第2話、第3話と雪だるま式に膨れ上がらせる者は幸せである。
スパロボから原作を知る者は幸せである。
聖戦士ショウ=コハ=ザマの物語を知る者は幸せである。
心救われるであろうから。うちのアウラちゃんにも救われる生存ルートを
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「紙とペン」から散った力は、恐らくマウス捌きにだって宿っている。
マウスとExcelによるアートの驚きや
プロゲーマーやRTAが成り立つ
その関係性の受け皿は既にあるってこと。
「複製」で作品が届けられているように、生成AIの肩に乗ってもいい。
学習の純度100%でも、アルゴリズムなどの影響が混ざることは避けられないけれど。
「関係性」では100%を必要としないし、
むしろ何かを付け加えて100%を避けなきゃならない。
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それはまた誰かの創作の力となり
引き継がれていくのだろう。
点描法(1883年頃〜)
茨の道だとは思うけれど、分かった上であれば、ITや生成AIと被る道を行こうとも止めはしない。
ジョルジュ・スーラは、写真機の流行よりも後だというのに、より写実的な絵を生み出す点描法を編み出した。
そしてスーラは、アート史だけでなく技術史にも顔を出す、とんでもない奴になった。
現代の印刷技術も、コンピューターグラフィクスも、この技法の派生とも言えるものに支えられている。
君の見ているディスプレイが出す、リアルに見える光は、スーラの生み出した画風の子孫だとも言えてしまう。
落語
落語業界は、だいぶ独自の慣習で動いている。
弟子たちにはタダで伝えていくしきたりがあり、著作権料なんか発生しないという。
そのおかげで、のほほんと暮らせるとも。
代わりに、生きている人の新作落語をやるならば、断りを入れる不文律もあるようだ。
しかし業界の外側にそれを強いるわけではなく、落語家そのものではないものの、音源のような隣接する他者の権利を侵せば、コレクターかつ落語評論家により指摘され、音源を選定した司会者は降板し使用料を自ら負担し…酒に溺れ…。
独自の慣習でやっていくってのは、寛容なだけではなく、厳しさあってこそ維持されるものでも本当はあるのだろう。
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落語家という職能ギルドが
商売して腐敗しないのか?
サンシャイン水族館で
アシカ芸の前の時間帯に演るって始めに
アシカの前座をやるのは初めてだとか言って
アシカと観客との立場のアクロバットしてた
あの落語家の同類でしょ?
自身すらネタにするような奴らが
慢心してられるとも
多人数でデカい悪さを企んで
黙ってバレずにいられるとも
僕には思えないんだ。
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バンクシー
法の外側でしか行えない表現もあるのだろう。
消されることが前提のグラフィティ(落書き)と財産権という枠組みが噛み合うわけもなく。
しかし違法である以上は罪を問われかねないし、シュレッダーされるはずの作品を保存されてしまうことも、小池百合子と東京都に保全され「バンクシー作品らしきネズミの絵」という案内板を立てられてしまうことからも、守ってはもらえはしない。
反資本主義・反権力的なのに、その価値が収束される物品を、金と権力に掻っ攫われちゃってない?
ゴールデンボンバー
ほほーん、AIが生成した画像を、プロがねぇ。
まあ僕は配信者じゃないし、特に関係ないね。
うわーなんかすごいことになってるぞ?
うわぁ本当にZIPファイルにMP3がいっぱい入ってるよヤベェよアハハハハハ。
あ
やっべ
ニコ動出現初期に乾いた日常に恐ろしい量のコンテンツが降り注いだ頃みたいな金でけりが付かない借りを作ってる感ががが
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それをずっと置きっぱなしだったの、この執筆のせいで思い出したのさ…。
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ヒェッ
違うんです
興味本位なだけなんです
MIDI検定は物理プロトコルやファイルフォーマットなどとして知りたくて取っただけで業界とは無関係な部外者ですホントです
プロに直接聴かせられる物なんぞ作れないのは先刻承知だよ
過去が追ってくるよ
どうしよコレ
宗教改革
そんでまー、表現・創作・アート、倫理・道徳、複製技術による変化のど真ん中にいた、ローマ・カトリック教会がさ。
免罪符という金がらみから分裂して綺麗になった直系と
聖書という物や原理などに沿う多様なのと
蓄財を認めて職人や商人にウケた多様なのと
3分の1まっぷたつになった最初の方のトップ、フランシスコ教皇が、G7でスピーチしたと。ほーん?
ローマ教皇
生成系AIが「生成的」ではないとか何言っちゃってるの?…と簡単に言えるものでもない。
ランダム的な組み合わせは含んでいても、本当に意味のある情報を新たに生んでいるのは、それと人間による結果の選別が組み合わさった系。あるいは人間の詳細な指示や、結果をフィードバックしての指示の推敲などだ。なかなか理解が深い。
まあでも、人間にとっての実用上は基本「生成的」でしょ?世界と非著作物と著作物からの「統計的」にも「発見的」にも使えそうだけど、応用を追ったら多分きりがないし。
「強制的」?そうだね。それが印刷聖書の、写真の、インターネットの、そして教皇自身がメディアを利用して伝えた言葉の特性だとも。
僕らはとっくに、「現実性」の中でそれに頼って生きている。
人間のアイデンティティーの理解のあり方?そうだね。インターネットによる一般社会と異なる倫理が、ITによりあらゆる分野に染み込み、AIで障壁が崩れた、人間の倫理の問題だとも。
IT革命からのね。複製技術のように、人間と社会の方がそれを前提とした形に変わらないとならない、半世紀以上かかるって奴だ。
いや宗教のプロ凄いな、倫理的に痛いところを的確につついてくるぞ?
これ以上どうしろっていうんだとも言いたくなるけど。
「道具は使用する人間の管理下にあり」そうそう大事なところ。
インターネットの匿名とかフリーダムに見えて、一意の記号が振られて技術的に容易に追跡可能な範囲までは、Webサービス等の管理者が背負ってくれてる分があるわけで。Winnyの開発者逮捕でオーナー不在とか、ダークネットとか、洒落にならん事態だとも。
追跡範囲外からアカウント再作成などする奴は警察のルールでどうぞ。
生成AIも、少なくとも今のところは、選択を任せっきりにできるだけの管理能力には足りないんだよね…。
イノベーションが中立ではない、確かにね。
より根本のインベンション(発明)…アイデア・表現二分論で言うならアイデアの方、不変の「イデア」、物理現象、摂理…作られたと言うより発見が基礎にある部分ならともかく。
その上に作り上げる仕組みの方、イノベーションの方は人為的だね。
そこは一律的な法規制の効きは悪いんだ。
「新しい社会システムの構築」って、人間と社会の方が変わるべきって方向で見てるのか。まあ、明らかにTransformerなどの「発明」が噛んでるものね…。
まあ、天から与えられたものなら、世の中の前提が変わることで、時に天に返されるのも、別の人にギフトが現れてくるのも仕方ない、そういうものだよね。
つまりは、ITがAI込みになって変容して、僕の適性は段々とずれて失われてく方向なんだって、それは誰のせいにもできないってことじゃないのさヤダー!
仕事で常時触ってて、絵描きへの影響の比じゃないんですけども?
まあ?自分で選んだ道だからには?自分でやれる限りどうにかするんだよ!ハハハハハハ
おわりに
へ、へへへ…。ぼかぁもうおわりだよぅ…。
半ば流れの雇われだし、元から手札に幅が要る身なんで、なんとかはするけどもね。なんとかなれーッ(弱)。
てか表現界隈と倫理の俯瞰って、ネタ突っ込まなくても語るだけで危険地帯じゃないですかヤダー!
法律以外の専門家があまり表に出てこないわけだよ!
こんな地雷原で勢いのままパンツ脱いでスレスレで踊り狂ってしまったよ!
ぼかぁもうダメだ…。
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あと、冷蔵庫もダメだ…。
真夏に冷えた飲み物抜きは辛い…。
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人類とオーラバトラーから生まれる
存在しない記憶(ネタ)が脳裏に次々と
その組み合わせはあかん…。
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警察からあるべき場所へ戻れたのかは、僕には分からない。
あ、締めの言葉、書かなきゃ…。
つまりは、もともと似たようなことは行われてきたし、IT革命の延長だし、先人の例もあるし、これまでに何度も起きてきた技術による変化ってことよ。
特性は少しばかり変化するけど、「いま」「ここ」から生まれる特別は、きっと君のそばにあり続ける。
この興味本位で大変なことになった怪文書が、表現・創作・アートを鑑賞し、ささやかながら作り出して楽しむ上で、多少なりとも手助けになれば幸いだ。
論争するんならこの辺を、知らずとも体感でうっすら分かってないと、守りたい作品の価値や観客を自分で踏みつけるんじゃないかい?これ新人どころか観客レベルのお遊びだからね、実際。
創作者・アーティストや、プロなら、新しい特別を提供する側だ。なんとかして、次の夢を見せておくれ!
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アアァ