毒を吸っても吐き出すのは愛でありたい
兎角容姿について言われたことが心に刺さって抜けない。
派手な髪色に露出多めの奇抜な服装、濃いメイクをしている私と、誰にでもいい顔をして愛想を振りまいている私が悪いのだけれど。
それでも、私にとって心の盾であり剣であり鎧だったものが音を立てて崩れていった気がした。可愛ければそんなこと言われなくて済んだのだろうかと心を酷く弱くさせた。
好きなメイク、好きな髪色、好きな服があまりいい顔をされないと分かった以上、私を私として何で構成すればよいのだろう。ナチュラルメイクに黒髪、無難な服を着れば私は誰にも傷つけられずにいられるのだろうか。
じゃあ私の心の鎧は何で固めればいいのだろう。
そうこうしているうちに髪を暗くしなければならない時期になり、身なりに気を使えるほどの余裕がなくなって、適当な服とほぼノーメイクで過ごすようになった。
自分の好きを貫くことで自分の心が攻撃されると分かった途端、怖くなってしまった。”好き”の貫き方も、心の持ち方も分からないまま、自信がないまま、未だに迷い続けている。
誰かにとって生きやすい世界は、誰かにとっては息が止まりそうな世界なのだろうと思う。
正義だと思っていたものが、誰かにとっての悪であるように。
悪だと思っていたものが、誰かにとっての正義であるように。
世界はきっと表裏一体で、正解なんてきっとなくて、だから余計に何を選んだらいいのかわからない。
例えば自分にとっての優しさが、相手にとって必要な優しさであるかどうかはわからない。お節介かもしれないし、余計なお世話かもしれない。
でもその中で、誰かにとって一番柔らかくあたたかいものを選んであげられたらと思う。
例えば私が傷つくことを言われたとしても相手には柔らかいものを返してあげたい。
容姿について言われた言葉の棘がずっと刺さって抜けないように、私が放った何気ない一言が誰かを傷つけてしまうことだってあると思う。簡単に放てる言葉は凶器にもなり得るし、なかったことにはできない。だからこそ、誰にでも柔らかくあたたかく包める言葉を放っていたい。
人間は自分に余裕がないと他人に優しく余裕がなくなるらしい。私もアルバイトで忙しすぎたり余裕がないとイライラしてしまうし、言葉が強くなったり言い方が悪くなってしまうこともある。課題に追われて余裕がないと些細なことで不機嫌になって近しい関係の人に当たってしまうこともよくあった。
辛いことがあったから友達に愚痴を聞いてもらった。その友達はきっと温かい気持ちにはならなかっただろうな。
その度に後悔して落ち込んでしまう。そんな自分を変えたいと思っている。
ずっと「変わりたい」と言い続けてきた。言い続けてきた割に、「変わる努力」を微塵もしてこなかった。変わることはとてつもなく勇気も、体力も、気力もいる。正直怖かったし、面倒だった。「こんな風に生きたい」と思うことはとても簡単で、目標を高く掲げるのも簡単で、でも実際に行動してきたことを挙げようとすると思い浮かばない。
努力なんてしていなかった。ただただ口で「こうなりたい」と言うだけで、それを目指す自分が「そう」なれたと勘違いしていた。
上辺だけそうなれた気がしていたけれど、実際の私の心はなりたい自分ほど優しくもあたたかくも柔らかくもないことに心のどこかで気が付いていた。
気づいていたけど、気づかないふりをしてきた。
このnoteを書いた以上、有言実行ということでちゃんと努力していきたいと思う。
最近の世界は人に対して少しだけプレッシャーが重いような気がする。
失敗したら人生の終わりのような、失敗してはいけないというプレッシャーを、主にインターネットや教育の世界でよく目にするような気がしている。
そんなプレッシャーの中で、どんな形であろうと生きている人が耐え切れず他人や自分自身に当たってしまうことだってあると思う。
もし、その先を私に選んでくれたのであれば、その時はどんな言葉を吐かれようとも愛で返してあげようと決めている。それがたとえどんなに強くて鋭い言葉でも、吐き出すことで楽になるのなら私が全部受けとめてあげる。私の体温で誰かを生かしてあげられたなら、私は溶けてなくなってしまったっていい。どんな涙の理由すら分けてもらいたい。綺麗事だと感じるかもしれないが、そんな人間でありたいと心から思う。今までの人生で私がしてもらってきたから、今度は私が私の心をあげる番。
どんな理不尽や屁理屈や悪意であろうと、あるいは弱さや暗さであろうと、私が受け取ったものが何であれ、私が誰かに吐き出す言葉はすべて害のない柔らかくあたたかいものでありたい。それが私にとっての愛で、誰かにとっての優しさでありますように。
私に向けられたどんな言葉も受け止めて、全てを愛で返せるような人間であれますように。
そして、私と関わる全ての人が幸せでありますように。