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5080親を送る①

これは、私の現在進行形の物語。親と子供の物語。

私の家族は、両親と姉2人、そして末っ子の私という構成だ。とはいえ、私は50代、姉の子供は成人しているし、両親は80代だ。

この物語は、親を施設に入れるまでの子供である私の物語。感情が日々揺れる物語。

序章 父の幼き日
私の父は、戦後すぐの昭和16年の生まれだ。父の父、私の祖父は、腕のいい大工で、幼いころは裕福な家庭であったらしい。

でも、自らが手掛けた新築の棟上げの日に、メチルアルコールを摂取して亡くなった。お祝いの乾杯での出来事だ。地域の人が数名亡くなったらしい。戦後は、アルコールが出回っていなかったため、こういう不幸な事故があったのだ。

そこからは、祖母一人で、子供3人を育てることとなった。戦後すぐのシングルマザー、今のように会社に勤める選択肢もなく、近隣の家の田畑の手伝いなどをして、子供を育てたそうだ。

祖母はとても頑張って子供を育てたが、手伝いで裕福な暮らしなど到底できるわけでもなく、父はその村一番の貧乏な家の子供に突然なったのだ。

父の貧乏度合でいうと、私が繰り返し母から聞いてきたエピソードがある。

小学校の昼食の時間、そのときはまだ給食なんてない頃で、父だけがお弁当を持参していなかった。お弁当すら準備できない家庭の懐事情のせいだ。

父は、クラスメートから好奇の目で見られるのも、哀れまれるのも望まなかった。だから、夏の暑い日も、冬の土に氷が張るような寒い日も、昼食時間になると、校庭の隅っこに裸足で立ち続けた。お弁当すら持たせてもらえない、だから、靴を買う余裕もなかったのだ。

この話を話すたびに、私の母は涙ぐんだ。父と母は隣同士の自治体出身だから、戦後の状況はそう変わりはないと思うのだが、母から見ても、父はとびぬけて貧乏だったのだろう。

でも、父は負けなかった。祖父も地頭が良いタイプだったらしいので遺伝だろうか、父は成績優秀だった。クラスの委員長も務めるほどの秀才だったらしい。

父は、成績優秀であったため、教師から養子縁組の話もあったらしい。でも祖母は断った。そんなに貧乏で、一人いなくなるだけでも、家計は助かると思うし、教師は父を養子に迎えて進学させたいとの意向を話したそうなので、父の人生にとってもいい話だったかもしれないと思う。でも、祖母は自らの子供を他者に委ねることはなかった。そして父は、祖母のもとで、祖母の手伝いをしながら暮らし続けた。

義務教育が終わる中学3年生のころ、教師から、これから大きく伸びる企業であると説明を受けた電力会社の採用試験を父は受けた。そして、無事に合格したのである。父は、中学卒業とともに社会に出て、真面目に働きぬいた。そういう真面目な人生を送ってきた父だ。立派な、私の誇りに思う父だ。

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