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短編小説「わたげを風に乗せた」
昨日で五十八歳になった。会社勤めは四十五歳の時に辞めた。早期退職者の募集の時だった。独身だったから、別に何も怖くなかった。もうこれ以上働く必要はないんだという安堵に、色んなことをやりたくなった。十年間ぐらい、東京の街を放浪しているおじさん。こんな人生、誰が真似したいんだと思うけど、自分が楽しいからいいんだ。
意外と感性は若いほうだと思っている。いわゆるイケおじとは程遠いが、カフェにもいくし映画だって見る。最近はドライもんの映画を見た。その時に買ったシャツを今日は着ている。
お洒落かは知らないが、服は好きだった。可愛い感じの服を着ることが自分にとってはなんだか少しの生きがいだった。何か新しいことを始める気力はとっくに失せたから、こうしてあるもので日々を過ごしている。別に何の変哲もない、ただのおじである。
今日は代々木に来た。ここまでは自転車で十分ぐらい。そんなに遠くはないが、あんまり来たことが無かった。自転車を飛ばしていると、金髪の兄ちゃんがいた。若いなあと思った。俺も金髪にしちゃおうかな、独身だし、と思った。いや、独身と金髪は関係ないだろと、心の中で思った。
そういえば朝ご飯を食べてなかったと思って、小さな珈琲店に入った。そこでは、ドーナツとアイスコーヒーを頼んだ。若い人たちが多かった。みんな、パソコンに向かって作業していた。店員さんも、なんだか愛想が悪いような気もしたが、そんなことを気にする人生は終わった。ただゆっくりできればいいと思い、一番奥の席に腰かけた。
カウンターの兄ちゃんが二人、レジを打っている。いかにも今風の兄ちゃんたちだ。ちょっとビビっている。こんな自分がこんな若者の店に入っていいのかと思った。年齢相応という言葉が嫌いだ。この年になると、気軽に行ける店も減る。周りの目なんて気にしないでいいと思いつつも、気にしてしまうのは若いころの影響だろうか。
兄ちゃんの一人が、バックヤードに入る際、私のシャツをちらっと見て、少し笑顔になって話しかけてきた。
可愛いシャツですね。
そうなんです、この前映画見に行って。
そうなんですね、懐かしい感じがします。
話しかけてくれてありがとうございます。
いやいや、こちらこそ急にすみません。
人は見かけに寄らないなと思った。こんなに緩く話しかけてくれる感じなら、きっと壁を作っていたのは自分なんだなと思った。少し頬が緩むのと同時に、このカフェが好きになった。ちょろい。
小さな文庫本を出して、読みだす。短編が好きだ。長編はなんだか終わりが見えないから面白くない。飽きちゃう。
バックヤードから戻ってきた兄ちゃんがまた話しかけてくる。そういえば、店には私一人と兄ちゃん二人しかいないことに気づいた。
何読んでいるんですか。
太宰の、斜陽です。
おお、いいですね。恋愛ものが好きなんですか。
ではないんですけど、なんとなく。
僕、小説家になりたいんです。
そうなんですね。
本が好きで、書くのが好きで。
いいじゃないですか。最近は書いているんですか。
はい、毎日、短編を少しずつ書いてます。
本当ですか、いいですね。ぜひ読みたいです。
もしよければ、これ、僕が作った小冊子で、短編が一本入ってます。
わあ、ありがとうございます。読んでみますね。
少し時間をかけて読んでみる。多分彼が飼っているであろう犬の話だった。平和な話だった。人柄が出ているというか、なんだか優しい気持ちになった。こんな出会いもあるもんだなと、少し感動した。年齢を重ねると、こういうことに感動しやすくなる。カウンターでは、片っぽの兄ちゃんに、またやってるわ、と言われていた。どうやら短編を紹介しているのはしょっちゅうらしい。いいなと思った。
彼の前では言わなかった。私が会社を辞めてから十年ぐらい、小説を書いていて、本屋大賞や、直木賞を獲った作家であることも。言ってしまったら、何か関係が壊れてしまう気がした。今は純粋に、彼の作品を心から楽しみたいと思った。
なんでこの小冊子を。
出逢った人に、僕のことを覚えていてほしいなって。
でも、これ作るのにお金だってかかるでしょ。
お金じゃないんです。記憶に残るほうが大事だと思うんです。
どうして。
強いて言えば、生きているから、ですかね。
どんな人生だったんですか。
今二十五歳で。
はい。
小さいころから勉強が好きでした。
そうですか、いいですね。
僕の短編、どうでしたか。
良いと思いました。なんだか平和で、優しい。
良かったです。なんだか目の前で読まれるのは、恥ずかしいですね。
そうですか。私もこうして感想を伝えるのは、なんだか恥ずかしいです。
お互い様ですね。
きっと運命のいたずらで、彼の本を私が読んでしまったんだろう。こうして彼の運命が変わっていくんだなと思って、小冊子をかばんにしまった。明後日に編集者と会うから、その時に紹介でもしてみるかと思った。幸せになってほしいと思った。こんなおじに話しかけてくれて、ドライもんのシャツを褒めてくれて。おじの居場所を作ってくれた彼に感謝を込めて。
感想を送りたいと申し出て、彼の連絡先を聞いた。あとで連絡すると言って、店を出た。LINEではなくて、メールアドレスを聞いた。僕からは連絡することはないだろう。思う存分、羽ばたけ、青年よ。
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