あさひがのぼるまえに。第一章「己の姿を夢見て」
こんにちは、愛は猫の眼です。この物語を手にとっていただき、そして僕と出会ってくださり、ありがとうございます。
この作品は、2024年度創作大賞「お仕事小説部門」への、応募作品になります。審査員の皆様、並びに創作大賞を運営してくださっている皆様に、心からの感謝いたします。このような場を設けていただいていること、当たり前だと思わずに、これからも邁進してまいります。改めて、いつもありがとうございます。楽しんでいただけたら幸いです。
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「これは桜なのかな。」
君がぼやっとつぶやいた事を思い出す。運命とは刹那的で辛辣でいつもいつも僕たちを苦しめる。嗚呼、なんて美しいと思って見惚れていると、君がこっちを向いてこう言った。
「そう言えば、いつ終わんの、仕事。いつ辞めんの、仕事。」
みのりがだるそうな勢いで呟く。今は午前8時の家の朝。なんでこんな話をしなきゃいけないんだと思いながら、ただ茫然とテレビを見ながらみのりの話を聞いていた。
明け方の拉麺が上手いのは、その前に酒を飲んだからなんだろうか、はたまた何かの終焉が迫っているからか。僕たちは何の気持ちもない日々の葛藤をねじ伏せて、今を生きている。だんだんと沈んでいく世界で、自分のことを気にする余地なんてないと感じながら、愛を育む準備をしているんだ。
俺は新卒のサラリーマン、大学3年生の時、いつの間にか就職の時期が来て仕方なく入った会社がもうそろそろ潰れそうなので、彼女からは退職した方がいいのではないかと言われている。
哀しいことは全部ここへ置いていけばいいのだが、明日が晴れると信じて今を生きている。今夜世界が変わると言われ続けてきたが、戻れないと思っている二人だから、今を生きているんだ。もっともっと人生を、自分の足で歩んでいくことができたらどんなに楽なんだろうと思いながら、何の変哲もない日常を眺めているだけ。
都内屈指の一流大学に入ったはいいものの、なんだかんだでサークルとか恋愛とかしていたら、就職活動は適当になった。自分の人生なんてどうなるかわからないのに、いつの間にか過ぎゆく日々に嫌気がさしてきた頃だった。単純に考えられればいいがそうはいかない。その方が楽だし、その方が楽しいし、そういうことしか考えられない僕はきっと、彼女の隣には向いていないんだろうな。
「まだやめらんねーよ。最後にやらなきゃいけないこともあるし。それにお前だってそろそろ働けよな。いい加減俺が家賃払ってんの意味わかんねーっつーの。」
みのりはいわゆる自宅警備員として同棲しているが、最も自分がとがめる必要がないぐらいお金を持っている。
「私のことはいいでしょ。違う人生なんだから。そんなことより時空間忍術とか変なこと言ってたあの先輩いたじゃん?」
自分が話したくないことについて話そうとすると、みのりはいつも話を逸らす。まあいいかと思いながら、屈託のない笑顔を向けられて仕方なく踵を返す。
「ああ、城戸先輩?」
「そう!なんか変な漫画が大好きだったあの大学の先輩、独立したんだってさ。自分で人材の会社を立ち上げるらしいよ。100億企業を作るんだとかって意気込んでたよ、SNSに自分の顔なんてあげちゃってさ。」
「ふーん、独立ねぇ。よくやるわほんとに。」
吐き捨てるようにつぶやいた。特段興味はないが、なんだか自分が見下されているみたいでいやな気分になりながら、雑な感じで言い放った。それでもあきらめきれない想いが沸々と上がってきている序章に、腹を立てている自分がいることも間違いない。
「理人は興味ないの?自分でほら、こうやってあーやってさ、こんな感じでバーンって!」
みのりが身振り手振りで表現してくるのを、死んだ目で見つめている自分に気づいて、慌てて表情筋に力を入れる。
「興味ない。俺は組織が合う人間だから。歯車になってた方が人生楽だし、いいことも悪いことも一喜一憂しないで捉えられる人間だから、組織がいいの。他人の人生に乗っかった方が楽だろ。」
「ほんとつまんないわねあんたって。そういうところがあの人に似てるんだよ。もう。」
朝の機嫌が悪い時間に、こういう話をされるのは正直疲れる。そう思いながらも、だんだんと過ぎていく時間を尻目に、自分が言いたくないことを言わなければいけない世界にも呆れている。
「お前はいつもそうやって春彦のことを話題に出す。どんだけあいつのことが好きだったんだよ。」
「違う逆。嫌いだったんだよ。なんかこう。かっちりしているところが大嫌いだった。私なんて見てませんよーみたいな感じでいつも話してくるから、すごい寂しかったの。でも理人は違うから、好きだよ。」
みのりは急に元カレの話をしては自分のことを棚に上げて、そそくさと最後尾に並んで、はいどうぞって感じで褒めてくる。甘えるのが上手いと言えばそれまでだが、この手には乗らないと、自分のことを律する準備をする。
「なんだよ急に、そろそろ俺でるわ。今日は家の掃除ぐらいしとけよな。」
「わかったわかった。早く行っちゃいなー。今日退職届出してきてもいいんだよ。」
何気なくみのりが言った一言が、妙に棘のあるように感じる。自分は運命に抵抗してはいけない人間だと思いながら、逃げるように玄関で靴ひもを結んだ。
「ばーか、余計なお世話だ。」
石上理人(いしがみまさと)、23歳新社会人。知り合いの伝手で入った人材会社は、経営の悪化でもうそろそろ潰れるらしい。もうそろそろっていってもキャッシュフローはあと3年ぐらい持つらしいから、それまでに次の会社を見つけろと言われている。転職なんて考えていなかったが、一年目でまさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。
でも、あの時見た桜がこんなにも素敵に見える日が来るなんて、それこそ思ってもいなかった。これは、俺の人生の中で起きた、ちょっと不思議な話である。
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「あのさ〜、あんまり変なことしないでもらえるかな?そうやっていつもちんたらしてるから、彼女さんに愛想つかされんじゃないの、全く。」
会社の上司の須崎先輩が、呆れたような声でぼやいている。
「すみません、次回からは気をつけます。あの、来週の花園ビギン様との商談資料なのですが、こちらも間に合っていなくて――。」
「それ、今日までに絶対終わらせてよ、私だって上に挟まれてんだから、気持ちぐらいわかってよね。早めにやらなかったあなたが悪いんでしょ。あーあ、今日も残業確定ね、可哀想に。」
俺が働いていたのはアワーサイドという人材系の会社で、主に新卒の人材紹介で売上を立てている。新卒1年目から半年たった今、企業側の担当も任せてもらえるようになった。それまでは新卒の子たちのキャリアカウンセラーとして、面談が主な業務内容だ。
正直やる意味なんて見当たらなかった。とりあえず筆が走るようになんだか身も蓋もない働き方をしていた。あっちではこう、こっちではこう、決まり切ったその世界の辛さと言ったらもう。ありふれた日々が輝いている感じはしない。もっともっと自分の人生を切り開いていきたいと思っているが、何にもうまくいかない毎日。それでも世界には自分が必要だと信じて生きているが、人生は簡単には動かないんだ。
「ごめん、今日も遅くなりそう。」
電話越しでも、みのりが不機嫌そうなことが分かる。今朝の機嫌が良いみのりとは違って、こういう電話のみのりは、見ていなくても顔が思い浮かぶぐらい怖い。
「あっそ、分かった。」
みのりとの交際が始まったのはちょうど3年前。俺が大学二年生だったときだ。同じ卓球サークルに入っていて、新歓のときに見かけて可愛いなって思ってた。
「ごめん。」
「いいよ、いつものことじゃん。がんばりなよ、し、ご、と。」
最初は相当な大恋愛だったと思う。大学4年生の時に、就職先の関係で遠距離恋愛になるかもしれないという時期があった。
「私たちって、なんのために同棲してるんだっけ。」
「え?」
「ううん、なんでもない。ご飯は置いておくから、夜食にでも食べて。」
「わかった、いつもごめん。」
最初は家賃が安くなるからという理由で同棲を始めたが、自分が半ば強引に同棲をスタートさせた。みのりは出向先が3月末に急遽変更になって、住む家を解約しなくてはならなくなった時に、俺が家に呼んだ。みのりは喜んでいたし、相当期待していたのだろう。俺があんまりにも帰ってこないから、この半年間ぐらいはかなり寂しい思いをさせてしまっていた。
「おい、コーヒー行こうぜ。まだやってんのかよ、ま、いつものことか。」
みのりとの電話が終わって生気の抜けたような顔でパソコンに向かっていると、奥の机からウォーターサーバーの水を取りに来た同僚の四ノ宮がのそっと顔を出してきた。
「うい、あ、金だけ下ろしていい?」
「うい。俺先行ってるわ。」
同僚の四ノ宮とは同期だ。唯一心を許せる同期と言っても過言ではない。この会社でせまっ苦しい暑苦しい雰囲気を打開してくれるのはこいつだけ。大学はそこまで偏差値は高くないところだが、地頭がいいせいか、会社からは期待の星と言われている。よく自分の仕事が終わるとこうしてコーヒーに誘ってくる。会社の下に喫煙所があるだけマシだ。
「また須崎にやられてんのかよ。あの先輩も言い方きついからなー。あんまり気にすんなよ。あ、そういえばさ、俺この前面談した学生とご飯行くことになってさ、zoom越しだとめちゃくちゃ可愛いんだけど、実物はどうかなーって思ってんだよ。」
「お前、それ大丈夫かよ。会社にバレたらやべーぞ。」
「大丈夫だって。バレないバレない。バレたとしても数字出してる新卒で期待のエースである俺に何にも家やしないだろ、上なんて。」
タバコを蒸す横顔が妙に遠く感じた。数字。世間的には数字を出さないサラリーマンは邪魔者扱いされる。自分も数字を出せないから、四ノ宮とは違って期待なんてされていない。いつ辞めるか、潰れる前にやめてくれないかなんて噂されているのを面談越しに聞いたこともある。
「んで、四ノ宮はどうすんの、次の会社。」
「あぁ、まだ3年後だろ。俺はこの一年にかけてんだから何にも動いてねーよ。目の前のことだけに集中してるからな。可愛い女子大生と何人ヤレるかでこの社会人生が決まると思ってる。」
「聞いた俺がバカだったよ。いいよな、そんな気楽で。」
「ヘラヘラしている方が人生なんていいに決まってるだろ。あんまり力みすぎんなよな。石上はそういうところがつまんねーんだっつーの。」
つまらない人生。自分ではわかっていたが、人に言われると傷が付く。浮つく心にコーヒーを流し込んでなんとか飲み込もうとする。なんだか黒い塊が心の中を渦巻いているような気がした。いつの間にか、夜すらも曖昧なままに人生が進んでいった気がする。もう限界をとっくに迎えているにもかかわらず、自分ではそれには気づいていない。刻む針も入り浸った散らかる部屋も、もうとっくに自分の骨を一体化して、傷なんてわからないぐらいには深く同化しているんだ。
結局仕事が終わったのは23時。恵比寿から最寄りの横浜までは電車で1時間ぐらいかかるから、帰りの電車の中でも色々と考えてしまう。もう少しだけ自分と出会うのが早かったら、なんてことを考えてしまうが、無理もない。
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澤田みのり。自分には欠かせない存在であるが故に、帰りの罪悪感も重厚にのしかかってくる。初めて勇気を出して話しかけたのを今でも覚えている。楽観的で天真爛漫なその姿がすごく魅力的だった。
大学では卓球サークルが同じだったが、大学二年生でやめてから、俺がすぐにボランティア活動のほうに専念したからか、みのりと同じ環境で過ごす時間は少なかった。それでも、学部のゼミは一緒だったから、なんとなく学生らしい恋愛をしていたことを覚えている。
城戸先輩は、そのゼミの時の先輩だ。地木大学の政治経済学部。提督大学までは行かないが、いわゆる日本で御三家と呼ばれる大学だった。高校受験で失敗した俺は、部活も入らずに予備校に通って勉強を続けた。
「もしもし?」
みのりからの着信。来ると思っていたが、いざ電話が来ると罪悪感で苛まれて、会社の疲れとも重なってどっと力が抜ける。会社が終わったのは夜の23時。心配させるのも無理はないと思いながら、みのりからの返答を待った。
「まだ帰ってこないの。大丈夫?最近ゆっくり話せてないなって思ってさ。」
「今駅から歩いているところだよ。」
「そっか、それなら良かった。今日もお疲れ様だね。四ノ宮さんは、今日も絶好調だった?」
基本的にみのりは優しい。これでもかって思うぐらい優しいから、自分もついつい甘えてしまうところがある。たまに危なっかしいところもあるが、それでも自分が心を許せるぐらいには、頼ってしまっている部分がある。みのりには支えてもらっていることが多いが、それでも金銭関係の話をするときにはぎこちない。
「ああ、あいつは相変わらずだよ。何も変わらないし、いけすかないのは間違いないな。」
「へー。でも珍しいね、理人にそんな友達ができるなんて。」
俺は大学時代は、いわゆる真面目な人間だった。何事も一生懸命やるし、約束は絶対に守る。そういうところをみのりも見てきたからこそ、この質問なんだろう。
「まぁ、腐っても会社の同期だからな。」
「でも、大学の時はサークルも入らずずっとボランティアばっかやってたから、友達なんてこれっぽっちもできてなかったじゃん。」
ボランティア活動では、自分でプロジェクトを立ち上げたり、色々な人に出会ってきたけれども、結局は本当の友達と呼べる人がいなくなって、なんとなく大学が終わるまでにできた友達は、就職と同時に離れていった。結局人生なんて、最後まで一緒に走ってくれる人なんていないんだ。だから、自分なんてどうでも良いと思う人と一緒にいるほうが、楽なんだ。
「それは言い過ぎ。俺にだって友達ぐらいいたし。」
「ははは、そうだよね。ちょっといじってみただけ。そいじゃ、ゆっくり気をつけて帰ってきてよ。まだ起きてるから。」
「わかった。ありがとう。」
みのりは、出向先の会社で、適応障害を新卒で入社して2ヶ月で発症して、それから働いていない。それでも凛と立つ一輪花のような、家でのくつろぎっぷりは一見の価値がある。
みのりの実家が寿司系列会社の総本山のようなところで、毎月の仕送り金額は俺の給料よりも多い。散りばめられた幸せをかき集めるように生きている俺に対して、みのりは約束された将来を歩んでいる。なんで俺なんかと付き合ってくれているのかもわからない。みのりの家族からの仕送りに頼るわけにもいかないから、同棲している家の家賃は俺が払っている。みのりの家族にまで、まだ結婚もしていない俺が頼るわけにもいかない。
乾いた雲に、夏の匂いが頬を撫でる。梅雨の時期の空気はジメジメしているが、俺は好きだ。なんだか自分の心と繋がっって泣きそうになる。吐き出すようにして近くの公園のベンチに座ると、自然と涙がこぼれ落ちてきた。
人生で楽しいことなんて言ったら、これっぽっちもなかった。慈善活動だと言って始めた大学のボランティアも、結局は企業が協賛していて営利目的だった。なんのやりがいのないまま日々は過ぎ去り、気づいた時には就活時期真っ只中、俺はバイトに明け暮れていた。みのりは、3年生時は卓球サークルで一般会計の役職に就いて、着々と王道幸せ人生を歩み始めている頃だった。あの美貌で会計もできるなんて、企業からしたら引く手数多に違いない。
彼女であるみのりが羨ましくなる時がある。なんだかやりきれない気持ちが沸々と湧いてくる時がある。自分なんてこの世界では脇役で、何もできないんじゃないかと思う時が最近だと頻繁にある。転職活動もなかなか乗り気にならないし、そういうことを思っているからみのりとのデートもあんまり乗り気になれない。
正直な鳩には餌が与えられるだろうが、つっぱりの燕には蜜すら届かない。それでも燕は広い大空をせっせと羽ばたいでいく。朝焼けに透き通っていくその姿は、まるで世紀末の天使だった。僕はどうすればいい。俺を置いていかないで。
また今日も眠れない夜が、ひっそりとオレンジ色に変わってゆく。
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「おはよ、今日は休みだよね。」
昨日は金曜日だったからか、どっと疲れて家に帰ったことを覚えている。だんだんと打ちひしがれていく清楚な姿に、脱ぎ捨てられた服が重なって、蒼を仰いでいる。
「ああ、そう。土曜日だしな、どっかいく?」
「うん、いく。」
みのりはこういう時、すごくかわいい声で返事をする。機嫌が分かりやすいと言えばわかりやすい。人生が棒状だとしたら、みのりはすごく真っすぐでしなやかで、なおかつさらっとしている印象を受ける。
「どこがいい?最近あんまりリフレッシュできてないから、うまいもんでも食べに行きたいよな。」
「丸ビルでイタリアン食べたい。とびきり美味しいやつ。」
横浜から東京までは近い。悪くないかと思いながら、ベッドから返事をする。
「お、いいね、いくか。でもまだ朝なんだよな。昼まで何するか。」
「この前買ったワンピースのゲームでもやろうよ。ほら、プレステの。」
「あー全然手付けられてないやつだ。やるかー。ちょ、その前に朝飯食べたい。なんかある?」
「焼きおにぎり冷凍してあるけど、それでも食べれば?」
「ういー、そうしますー。」
何の変哲もない朝、普段通りの土日、もっともっと人生は刺激的だと思ったが、それでもなお孤独感を味わうことができるのは、自分が平凡な人間だからだろうか。起き上がってキッチンに行く途中で棚からリモコンを取ってテレビをつけた。
「ザザザー。昨晩、23歳の男性が職場で刃物を振り回し、43歳男性が重傷を負った事件がありました。容疑者である男性は、日頃の鬱憤が溜まっていたとのことで、家から刃渡り15センチの包丁を持ちだしたそうです。」
「ほえー、23歳ね。理人と同い年じゃん。」
飽きもしない世間から、こうやって膿が出てくると人は煙たがる習性があるが、楽なほうに逃げたなんて言わないほうがいいと思うんだ。余計な感情はもう捨てて、曖昧な感情はもう捨てて、こういうニュースすら世界に散ってしまえばいいのに。
「新卒かな。そうだよなきっと。43歳ってことはマネージャークラスだな。大手だったらそこまで関わらないはずだから、小さな会社なんだろうな。でも殺人までしちゃうって、よっぽどだよな。」
感心しているのか無関心なのかわからないが、自分でもあんまり興味ないふりをしながら聞きながら横を見ると、みのりが真剣な顔でテレビを見ている。
「ねーさ、こういう時ってどっちが悪いと思う?」
「え?」
「だから、刺した方か、刺された方か。」
考える。何も変わらない中で、自分が確かめたわけでもない真実に、あーだこーだいう筋合いはないが、いけないことだともいいことだとも思わない。分人と個人の議論は多々されているが、ここから抜け出してここから願いを受け取ることができれば、息をのむような世間に周波数を合わせることができるんだろうか。
「どっちも悪くない。悪いのは世の中の雰囲気だろ。その上司だってきっと上から圧かけられてただろうし、その上だって社会から圧かけられている。結局こういうのは誰が悪いとかじゃなくて世の中全員のせいなんだよな。」
みのりが、少し安心したように笑う。
「ふーん、理人にしては真面目じゃん。いいこと言うね。」
「ま、俺もそう言うこと考えてた時期もあったからな。」
吐き捨てるように言うと、それを聞き逃さなかったみのりが顔をこちらに向ける。
「え?」
「あ、焼きおにぎりできた。」
普段は静かな少年が、怒り狂うと牙を向く習性は子鹿も同じらしい。そんな話をボランティアで行った山の女将さんが言っていた。牙っていうのは唾液で磨かれるから、普段から仕舞っている方がより鋭く、より強固になるらしい。この男性もそうだったのだろうか。
自己満足の範囲は超えているため、社会には愛想を尽かしている。自分なんてどうせ歯車の人生で、どうにもならない力で何者にもなれずに終わる。そういう人生がお似合いなんだよと夢の中の老婆に言われたことを思い出す。へーへーと頷くことしかできなかった。
「理人、最近大丈夫?」
「なにが?うわ、焼きおにぎりあっためすぎたわ。」
「いや、なんかちょっと変だなって。なんか目の奥が暗いっていうか、なんというか。」
「別に。ごく普通に生きているだけですけど。」
心配そうなみのりは、いつも自分が会社に行くとぐったりして帰ってくることを心配している。自分は家でゆっくりしているから、俺のことを考える時間が長いんだろう。それも愛なんだと思いながら、なんだかやるせない気持ちになることもある。
「ほら、私の実家は裕福だから、理人が無理して働かなくてもやっていけることはできるんだから、あんまり気負わずにいきなよ。」
自分の眼の色が変わったことを感じた。
「なんだよ、それ。」
一瞬で頭に血が上ってことが分かった。自分も自分で頑張っているんだから、それを否定されるのはなんだか癪に障る。それでも自分のことを保とうとしているにもかかわらず、人生には時間がないと言うCMが流れ、二人の間には歪みが生まれる。
「あーいや、私はただ、最近理人が本当に辛そうだから。」
みのりが言い訳を言うような、苦笑いをしながらつぶやく。
「俺には働く資格なんかないってか?」
言った瞬間に、言いすぎたと思ったが、自分でも引き下がれないぐらいには心がやつれていたんだろう。もっともっと自分を大事にするべきだと言っているかのようにも聞こえるが、それでも全くできていない論文に比べれば、自分の生き方は真っ当だと思っている。
「そんなこと言ってないじゃん。そもそも働くことなんて義務じゃないし、資格とかそういう話じゃないし。」
「みのりはいいよな。将来なんて考えなくても自由に過ごせるから、こうしてグータラしててもなんも人生には影響ないもんな。」
「ちょっと、なにそれ。やっぱり理人、変だよ。」
二人の間に、また歪みが生まれる。みのりがこんなに怒ることなんて少ないが、俺だって俺なりの考えがあることは間違いない。お互いに引くに引けない状況を一掃しようと、しょうがなく言い放った。
「ごめん、今日やっぱ出かけんのやめよ。俺仕事してくるわ。」
やりたいことなんてない。言いたいことなんてない。でもなんか言われたら言い返したくなる。みのりの人生が羨ましいと思えば思うほど、心の距離が離れていく気がする。また言いたくないことを言ってしまった。
働く事なんて義務じゃなくても、働かないといけない気がするから働いているだけだ。働いていなかったら自分に対する罪悪感と無力感できっと押し潰されるだけ。俺は働くことで生きているんだ。そうだ、きっとそうだ。
結末の知らない堕天使は自堕落な生活を送るのだろうか。空の青さを知らない蝶々は、この世界の終焉を何処に見据えているのだろうか。みんなみんな目標があって生きているのだろうか。俺には何もない、そう、俺には何もない。
「そもそも働くことなんて義務じゃないし。」みのりの言葉が心に残ったまま、何もできずただ珈琲をかき混ぜていた。
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「御社の採用の問題点としては、やはり集客面にあると考えております。御三家の大学により手早くアプローチするためにも、わたしたちのサービスを、、、」
「なに?また営業の電話?うちなら間に合ってるからいいよ。ブチッ」
受話器を置いた手がまた泣いている。
振り替えり征く術をなくした天使は、幸せの定義を何と言うのだろう。風が詠うのは辺鄙な西洋史か、心が見出すのは宇宙の正解か。信じられないほど堕落したこの世界で、綺羅びやかに熙るのは明日だけなのに。俺は今日も同じような日々を繰り返している。
「石上、テレアポなんて珍しいじゃん?ほら、缶コーヒー買ってきてやったぞ〜。」
四ノ宮の声が部屋の隅から聞こえる。社内でもスキップをするほどのやつが目の前に現れて、拍子抜けしながら、四ノ宮がいて助かったと思って振り返る。
「四ノ宮。おつかれ。ありがとう、でも俺、缶コーヒー苦手なんだよなぁ。」
「んだよ!せっかく買ってきてやったのに。じゃあいいよ、お前が好きなモンスターでも飲んでれば。」
「すまんすまん。いやぁ、来週の商談数の目標が届いて無くてさ、今日は仕方なくテレアポだよ。最近はオーガニックでも集客出来てたんたけど、ついに貯金が尽きてな。」
「あ〜、なるほど。俺テレアポ嫌いだから絶対やりたくねえわ。トスアップが一番いいだろ。飲み会で隣りに座ってる社長っぽい人口説いたほうが100倍はええっつ〜の〜。」
「そんな訳分からん営業してんのお前だけな。接待後輩に教えられないだろ、そんなことしてたら。」
「俺は一匹狼だからいいんだよ。そいえばさ、見た?あの新卒の子が上司刺したってやつ。エグいよなぁ。しかもあれ、どうやら違う部署の上司だったらしいんよ。」
四ノ宮は、なぜか俺がそのニュースを見たことを知っていたかのように話し始めた。知らなかった事実に戸惑いを隠せない自分を見ないで、缶コーヒーの蓋を開けていた。自分の眼の色が変わるのを、また感じた。
「え?」
「そう、驚きだろ。犯人と上司は全く関係は無かったらしいぜ。何が嫌だったんだろうなぁ。あ〜こわいこわい。」
世間だ。紛れもない世間だ。俺には分かる。巡るめく未来のことに期待できないから、衝動的になったんだろう。華やかな光をそっと包むのは快楽ではない。感じた恐怖よりも更に深くて鋭い恨みだけだ。
誰だってノックするドアの前では一瞬立ち止まるが、稀にそのストッパーがないやつもいる。タイミング次第では俺も被害者だったかもしれないし、こいつだって運命には逆らえないだろう。
良くないとはわかっているが、本当に犯人が悪いのか俺にはわからない。こうやって世間がまた釣り上げる悪意。沸々と闇に落ちて行く人達は増える一方なのに。
「石上?」
茫然と話を聞いていた自分の顔を、四ノ宮がのぞき込んできた。不意に反応した顔は、どんな顔をしていたか覚えていない。
「あっ、なに?」
「いや、なんかすっげぇボーっとしてたから。」
「あー、昨日あんまり寝てないんだよなぁ。みのりと喧嘩しちゃってさ。」
とっさに出てきた言い訳がこの言葉だった。自分がいつも感じている違和感が、さっきのニュースで的を得てきた気がして、なんだか居たたまれない気持ちになっていることが本心だ。
「うぇ〜、めずらしっ。お前ら喧嘩なんてするんだ。」
「お前らって。会ったことすらねぇだろ、みのりに。」
「まぁな〜。でも石上ってさ、自己主張とかしなそうだから、あんまり彼女とも揉めなそうなのになぁ〜って思ってさ。」
「普段はそうなんだけど、昨日はちょっとカッとなっちゃってさ。俺も悪かったなぁって思うよ。」
「ま、ぶつかるぐらいがちょうどいいからな。俺だって今の彼女と毎日のように喧嘩してるぜ。未来のこととか俺はわかんねぇし、あいつと結婚する保証もないし、何より色んな女とやりてぇからな。」
「相変わらずなんでお前が刺されないのかが不思議だよ。はぁ。」
「あっひゃっひゃ。だろ、俺もそう思う。」
本当に四ノ宮の生き方には惚れ惚れ天晴だ。こんなにも自由で奔放で嫌味のない人間はいない。それでも生きていられるし、何なら幸せそうだし、なんなんだこの感情は。回ってない感じがすごい息苦しい。やり直せるのであれば俺は人生をやり直せたのだろうか。
練り歩く旅も悪くないというが、散って残るのは道端で見た恋人同士の喧嘩ぐらいだろう。人はそんなに人生の細かいところまでは覚えていない。半ば諦め掛けて望んだほうが良い結果になることは目に見えている。どうか笑って過ごしたいと叫んでいる歌にまた酔いしれられる日は来るのだろうか。
下手くそな似顔絵を描くストリート野郎ですら幸せそうに生きているのに、なんだろうこの感じ。俺なんて生きてるだけで辛いのに、彼奴等はなんであんなにも自由にできるんだよ。真面目で心は人間に向いているはずだ。俺は何も間違っていないはずだ。
「あ、そいえばさ、フラミンゴの習性って知ってるか?」
「いや、知らんそんなこと。」
「だろうな、石上が知ってるわけ無いだろうな。フラミンゴって色のせいか、天敵が多いんだよ。だから、いつでも逃げられるようにああやって一本足で立ってるらしい。寝るときも起きてるときもずっと一歩スタートしてる感じ。」
「へぇ、それで?」
「つめてぇ返しだなぁ。なんか、フラミンゴって意外と疲れてそうだなぁって思ってさ。普通に二本足で立ったり、ごろんて寝転んで休めばいいのにって思う。なんか力入りすぎっつうか、なんというか。」
言わなかったが、四ノ宮なりの心配だったのだろう、あの話は。帰りの電車で思い返すが、普段からあまり自分以外の話をしない四ノ宮が珍しくて、なんだか気味が悪かった。何かを探すように、俺のことを探るように。
一人の帰りはやっぱり寂しい。耳が消されても俺の存在は消えないのだから、甘えたところで何も生まれないのはわかっているけど、お分かりじゃないこの世間と目線を合わせなきゃいけないのが辛い。夜はこれからと思いたいが、俺は塗り重ねたこの時間が余計に辛い。
約束なんてできないのに、俺はみのりとの将来に期待してしまっている自分がいる。愛の類じゃないのはわかっているけど、やっぱり好きなことは確かなんだ。細かい男じゃないのはわかってるし、なんにもできないし意固地で優柔不断で世間に順応できない俺だけど、休日にはどっかに出かけたいし、みのりと一緒に何かしたいことは確かだ。その頭を撫で続けていたいし、飽和している世界でも見えるものはあると思いたい。
日々を飲み込んでいたいのは、あのときのはみ出したときだったのだろうか。不器用な面倒にも拭えない利き手じゃないし、仕事なんてもってのほかだ。
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「あれ?理人じゃん!」
会社からの帰り道、突然の後ろからの声に驚く。でも名前で呼ぶ人なんて、友達が少ない俺にはあんまりいないと思いながら、不審そうに振り返ると、そこには懐かしい顔が立って居た。
「え、城戸先輩??」
「おー、偶然だな、こんなところで会うなんて。確かに俺ら、最寄りが一緒だったもんな!いやーひさしぶりだなー。」
晴れ晴れとした顔つきの城戸先輩は、なんだか痩せ細った気がする。それも悪い意味ではなくて、いい意味で細マッチョになったと言うか、とりあえず自分との差にちょっと声色が曇る。
「お久しぶりです。みのりから聞きました、独立されたみたいで。」
「お〜!そうそう、ついにね、今はめちゃてんやわんやだけど、なんとかやってるよ。そういう理人は、どうなんだ??あんまりお前の近況知らなくてさ。」
「3年後に潰れる人材の会社で、キャリアアドバイザーとリクルーティングアドバイザーやってますよ。」
「あ、え、人材?!しかも、3年後に潰れる?!お前にしてはそんなベンチャーに飛び込むなんて珍しいな!」
大学生の時は安定志向だった俺は、大手の会社に入るとばかり思っていた。就活の時は大手を受けまくって、いわゆる一般的な就活を経験したが、結果は惨敗。というか、就活時に自分がやりたいこととかしたいことが見つからなかったから、途中から適当になった。真面目に学生生活を送っていたつもりが、本当は意志なんて備わってなかったんだ。
「城戸先輩に最後にあったのってゼミ飲みですよね、城戸先輩たちを送る会の。あれから俺、ちょっとやる気なくなっちゃって、就活も適当に。」
「ほあ〜、そういうことかぁ。でも3年後に潰れんだもんな。転職とか次行くところとか、考えてるんだろ、お前なら。」
「はい、なんとなく。」
「んで、その浮かない顔は、世間とか社会に絶望している顔だな、さては。」
今の悩みを突然言い当てられて、少し顔が引き締まったのを感じる。
「えっ。なんで分かるんですか。」
「そりゃお前。ボランティアとかやるぐらいだから、社会貢献意欲はメチャあったたろうし、そういうところすげえなって思ってたから。人材のベンチャーなんて、結構真っ黒だし、お前にあってんのかよ、って今思っただけだよ。」
商店街のアーケード、電線の影でなんだか綱渡りをしている気分だった。なんてことない生活の端々で生まれたぬくもりを忘れたくはない。たまにはこんな日があっても神様は赦してくれるだろうと思っている。抱きしめられてもいいし、なんか幸せになってもいいよね。最後に笑って君に会えなかったとしても、雨が降ったあとの匂いは、消えないだろう。
世界はまだ続いていくけど、変わらないで待っている時間もない。結局はすべて運命だというけれど、それはそれで不気味で不格好に思うのは俺だけだろうか。最後の夜になりそうな気がして、背中に手を触れても、変わらずに明日は来る。俺達はどんなに足掻いても何度も何度も同じ日を繰り返している。
今更遅いと思うけど、自分にもなにかできることはあるのかな。
「その通り過ぎます。それで今悩んでて。」
「だろうなぁ。わかる。俺もそういう理由で独立したんだもん。」
ちょっとずつ、今まで湧いてなかった城戸先輩に、興味がわく。
「あ、そうなんですね。」
「そそそ、世間にうんざりっつーか、俺がやるしかねーかっつーか。」
「へぇ。意外とそういう所あるんですね。」
「意外と?!失敬な!!」
城戸先輩は、学生時代はいわゆる、モテる人だった。女子たちからはいつも話しかけられていたし、何でもできるかっこいい人だった。でも授業は全然真面目に行かなかったから、優等生からは嫌われていた。挙句の果てにはあの人には人情がないやら社会を知らないやら、横やりを刺されていた。
「あっはは。」
「まぁあれだ、俺にできることなんてあったら何でも言えよな。たまには飯でも行こうぜ。」
優しさが心に染み渡るのを感じながらも、まだこの人のことを完全に信用できない自分がいることにもなんだか違和感を感じる。
「はい。また話したいです。」
緋の眼色をした世界が黄ばんでいるのなら、新緑の芽は輝いているのだろうか。肩が痛む、足が痛むと言っている無言の世界に発しないと、きっと何も変わらないのは分かっている。
散々馬鹿にしていた自分が恥ずかしい。独立なんて普通の人がするもんじゃないし、自己中心的な考えの人がするイメージがあったから、なんとなく敬遠していた。でも、城戸先輩のあのキラキラした顔を見たら、なんだか羨ましい感じもした。
綺麗すぎる世界を見ると、切り取られた笑顔に貼り付けになる視線がいたい。あの街に、あの世の中に針を刺せるのであれば、君かいないと張り裂けそうになる気がしている。泣いたっていいのであれば、また踊りたいと思っている。それでも、伝わりそうもない気持ち全部どっかの穴に投げ捨てて、全部忘れて前に進みたいんだ。
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「ただいま。」
「おかえり〜。」
みのりと目が合う。窓から流れる景色が変わらないまま、玄関から憧ればかりが強くなっていくのが分かる。みのりから一度目を逸らして、靴を脱ぐ。
「あのさ。」「あのさ!」
「あっ。どうぞ。」「あっ。どうぞ。」
みのりと綺麗に言葉が重なった。
「昨日はごめん。」
「うん、私も。それが言いたかった。」
「俺もなんだか気を張っちゃってたし、なんだか自己中心的な考えだった。」
城戸先輩と遭遇したおかげで、心に余裕ができていてよかったと思った。玄関前で、入ったらすぐに謝ろうと決めていたことも、功を喫した。
「私も、理人のこと考えずに色々言っちゃってごめん。」
「うん。俺も。」
「ご飯できてるよ。食べる?」
いつものみのりの優しさが戻る。安心のあまり自分でも顔がほころんでいるのが分かる。
「おっ!いいねぇ!食べる食べる!」
今夜終わりにするなら、これでサヨナラなんて言えるのだろうか。会いたいって君だけに言って、今夜だけは、今夜だけはこれでサヨナラなんてロマンチックな事は言えない。君との世界が永遠でないのををわかっているからこそ、今日という日の出会いにも感謝したいんだ。
トボトボと歩く背中には、羽が生えているのかすら自分ではわからない。結局は自分なんて自分では何もわからないのかとため息を付きながら、今日も出勤している。みのりとは仲直りできたけど、それはそれ、これはこれだ。自分の中にある黒いもやもやは消える気配もないまま、今日も憂鬱に会社に向かう。
人生が八分目でいいとしたら、この世界は何処まで作り上げているのだろうか。この星で願い続けていたきらめく景色に飛び込むことができたのなら、孤独な世界でひとり願うことに時間を使うのに。誰かが選んだ世界ではなくて、自分で選んだ世界がいいんだ。自分で掴み取った世界がいいんだ。筆を走らせ、色ペンを替え、逃げるように隠れるように乗り込んだコックピットで自分の人生とともに脱出したいだけなんだ。呪縛を解いてくれるのなら、自分だけなのかと言わんとする。
「その顔は、みのりと仲直りしたな。」
朝、一番、エレベーターから降りる。なぜか給湯室からタイミング良く出てきて、俺のところに来た四ノ宮は、俺の顔を見るなりにやにやして話しかけてきた。
「おっしゃるとおりで、さすが一流営業マン四ノ宮さん。」
「なんだよその厭味ったらしい言い方。なんか腹立つんだけど。そういやさ、聞いてくれよ。この前言った大学生の女の子、無事お持ち帰り完了しちゃいました〜。いや、最高すぎたね。」
「朝から下品な話きかせんな。このグーテン野郎め。」
「あっはは、なんかお前最近辛気臭いから、ちょっとは慰めになるかなって思ったんだよ。とりあえず、みのりのことは解決したみたいだな。」
「みのりのこと「は?」。」
「そうだろ、だってお前、それ以外にも悩んでいることあるだろうに。ほら、どうせ今の会社から転職するかどうするかとかだろ。」
いつもいつもこうやって何かを言い当ててくる四ノ宮になんだか違和感を感じながらも、間違っていないよなと思い、小さく返事をする。
「まぁ、そりゃ相変わらず悩んでいるけど。」
エレベーターの前で話し込んでいると、須崎先輩が給湯室から出てきた。
「ほら、仕事しろ仕事ぉ〜〜」
「げ、須崎先輩だ。逃げろ〜〜。」
四ノ宮が赤ん坊のようなしぐさをしながら、小走りで執務室に戻った。須崎先輩と、エレベーター前で二人。なんだか少し気まずい。
「四ノ宮はまた逃げたか。どうだ石上。今週の商談資料はできているんだろうな。」
いつも通り俺が何もできていないだろうと言うようなテンションで話しかけてきた。でも、昨日から少し気持ちが変わった自分がいることに、まだ須崎先輩は気づいていない。
「はい、できています。3部ずつのコピーで良ければここに。」
少し、須崎先輩がたじろぐ。
「おお、珍しいじゃないか。石上にしては。何だお前、いいことでもあったんか、なんかの風の吹き回しか?」
「いや、別に。でも、。」
「でも?」
なんとなく自分で立つことの意味がわかった気がしている。昨日の城戸先輩の話もそうだし、みのりとの話しもそうだし、まずは置かれたところで咲いてこそ、自分で自立するってもんなんだと思う。心を入れ替えて頑張らないといけないなと、自分なりに噛み砕いて思っているのは確かだ。
だから君のポケットの未来を僕に、笑って渡してほしいから、言葉尻一つで勘違いしないでほしい。自分は自分で決められるし、自分でも予想もしない自分になれる気はしないけれど、予想通りの人生ぐらいは歩める気がしているんだ。
変に構えて撒いた種よりも、ホッとした時に落ちた種のほうがのびがいいというのは本当の話だろう。人生にもボロ雑巾のように砕け散った人生から、精神を飛ばして活気づいた人もいる。何があるかわからない人生だからこそ、何でもしなきゃいけないんだ。
踊り続けていれば先頭、自分で道は切り開いていくことなんざ、高校時代から培ってきた得意分野だ。なんだか自分でも何かしらの役に立てるんじゃないかと、不覚にも昨日少し思ってしまったんだ。喜びがもし倍になったって、悲しみは半分になったりはしないが、それでも何がしたいか、損得も忖度も死ぬ間際に抱きしめるような物以外はいらないと自分に言い聞かせて、前を進むと決めたんだ。
「いえ、なんでもないですけど、最近はちょっと調子いいかもしれないです。」
「おお、そいつは関心だな。そういうお前に朗報だぞ。これから3年間で最期の大仕事である、ブランディングコンサル業の新規営業に、明日から異動だ。よろしく。私の元は離れて、営業部の秋下さんが面倒見てくれることになってる。今日にでも挨拶してこい。」
呼吸をしていたと思っていたが、急に心臓が止まったかのような風に襲われた。須崎先輩は、思い出したかのように言ったが、自分にとっては急展開過ぎて、まだ話がよく分かっていない。しかも朝のエレベーター前で。こんな適当なところも、良い意味でベンチャーっぽいなと思いながら、疑問形で話を戻す。
「え?異動?しかも明日?」
「3年ってスパンが決まっているんだ。組織編成は早く、フットワークは軽く行くらしいぞ。今よりもずっと厳しい戦いが待っているだろうが、ま、この長い人生で見ればほんの一部だ。一回全力掛けてみてもいいと思うんなら、やってみろ。」
いったん止まって、一回呼吸を挟んだ。自分が異動。なんだか運命が動くかもしれないと思って、本当の強さと本当に自由を曖昧にして、返事をした。
「はい。明日から頑張ります。」
何度も期待して傷ついて、最後の夜を共にしていた。今夜も家を出なきゃいけないのだろうかと思うが、それは叶わないと思っていた。何度も泣いてもまた繰り返すだけだと思っていた。人生なんてそこそこで、自分なんて何処からも必要とされないと思ってた。だからこそ、だからこそ。
曖昧な言葉と態度でごまかしが効かない世界で、ただただ時間だけ過ぎるのがもったいないと思ったのはいつからだろうか。時計の針が憎らしく見えたころもある。とっくに世界が冷たいことは知っているが、君の手は暖かかった。もう騙されはしないと思いつつも、こういうときだけは信じてしまうのが人間というもので、期待をしてしまうのが人生というもので。
帰る場所があるということは、独りになる場所がないということではない。自分が夏だとしたら玄関は春だ。次の恋を待つぐらいなら、僕は芋ですら温めて時を待つことにするよ。
それでも、ふやけきったさつまいもは、徐々に腐敗していくのが運命なのだ。
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自分以外のなにものかが何かをねだっていたとする。それが自分にとって、大切にしたいものだとする。君といたいことを優先するか、それとも心臓を差し出すか、答えは二者択一ではないことは、知らされてはいけない生身の隠れステージである。
実力を発揮しきる前に、自分が一番できないことが降ってくると言う。それに飛び付けるかが人生の分かれ道だと言うが、それもそれでわからない気がしている。
普段は何気ない一言が、いつもよりも重く感じるときがある。重圧に負けて人生を投げ出したくなることもあるが、それでも踏ん張って生きなければいけない時、人生は少し前に進む気がするんだ。ぱっと一言じゃ言い表せないのが愛で、一体あなたの何が好きなのかはわからないが、それでもあなたを愛することを選んだ僕に、きっと罰は当たらないだろう。
「おかえり〜。」
いつも通り帰ると、声が反対方向から聞こえた。キッチンと逆方向に置いてあるソファに座っている証拠だと思いながら、リビングへ向かう。
「ただいま〜。」
「今日は早いね。久しぶりに。」
「あぁ、今日は仕事早く終わったからさ。それで、ちょっと話したいことがあって。」
ソファにもたれかかってゲームをしているところから見上げて、少し微笑んでいる自分を不審そうに見るみのり。とても不審そうに、コントローラーを机に置く。
「え、なに。急に改まって。」
「いや、別にそんなんじゃないんたけどさ、新規事業の営業部に明日から異動になった。ちょっとした、昇進、かな。」
ぽかん、という音が鳴ったと思ったら、みのりが急に立ち上がって叫びだした。
「え!すごいじゃん!ほんとに!おめでとう。え〜なんだよかった〜!理人最近ちょっとげんなりしてたから、心配してたんだよ!え〜よかったじゃん!」
子供でも生まれたのかと思うぐらいの驚きように、自分もびっくりしながらも、相変わらず笑顔なみのりを見て安心する。
「あっはは、心配させました。それでさ、」
少し目の色を変えて、真面目な表情になる自分を感じた。
「うん、」
みのりも俺の風が変わったことを察知したのか、手を後ろに組んでいる。
「おれ、本腰入れて仕事頑張ってみようと思うんだ。置かれた場所で咲けないと、違う場所でも咲けないだろ。だから、その。」
「うんうん!いいじゃん!頑張りなよ!あれでしょ、帰りが遅くなるとかそういう話でしょ。私は理人が頑張ってる姿を想像するだけで嬉しいから、全然気にしないで。」
「ありがとう。早速明日から色々と始まるから、ちょっと遅くなるかも。でも、みのりのことも、ちゃんと向き合いたいし、俺は責任持って幸せにしたいと思ってる。」
みのりが照れくさそうに、分かりやすく笑顔になる。
「なにそれ、プロポーズみたい。」
「あ、いや、それはまだ。」
「まだ?ってことは?あっはは。これ以上は何も言いませーん。」
「おちょくるなって。」
「ごめんごめん、ご飯できてるよ、食べよ。」
潮風が肌を飲む。手を引かれるままに世界に飛び込んで見たけど、まだ遠くでただ彷徨っているだけかもしれない。雲を超えて、風に乗って、想像力という縛りのない世界にたどり着くのはいつになるんだろうか。
支配されている世界に幸せはあるのだろうか。靴紐が解けていることに気づいていない人は、その危険性について考える事はできるのだろうか。自分が知らないことについて悩むことができないのと同じで、幸せもなにもないところからは生まれない。
重力の向こうへ行けるとしたら、僕は海へ行きたいと思う。屍の先に未来があるのなら、靴を脱いでさざ波を感じることを生きがいにするよ。溢れた水の泡を飲んで、あなたと一緒に乾杯したいと思う。
「なーんで急に仕事頑張ろーってなったの?」
「うーん、なんとなく。」
「理人に限ってなんとなくがないことぐらい分かるよ。本当はなんか心境の変化があったんでしょ。」
「なんか、人生もうちょっと頑張ってみようかなってさ。本当に少し上を向いてもいいんじゃないかなって、少しぐらい前を向いても罰は当たらないかなって。」
「ほほーん。なるほどね。なんか理人らしいね。分かり合うほど責任は持てないけど、応援してるし、見てるよ。」
「うん。」
「私はさ、何もできないけど、理人のそばにいることはくらいはできるんだから、私にだけは弱みとか、見せてもいいんだからね!」
幸せのために生きているだけさ。幸せに刺さる孤独で何ができるのかは分からないけれど、救われる心があるのであれば、それに理由はいらないだろう。全てが始まる音は、今まで一度も聞いたことがないから、きっと音は無いのだろう。喜ぶ姿にどれだけ救われたかは分からないが、それは些細な始まりだったりする。
ありふれちゃいない幸せだけど、俺はこの幸せを手放したくないし、君からもらったその言葉を胸に刻んで、明日も明後日もその未来も、歩んでいきたい。
何かを始めるときは何かを捨てなければいけないというが、それは本当なのだろうか。笑いあうために、ごめんねに込めたありがとうのように、幸いきれいなままで終わっているものでもいいのではないだろうか。信じられるのであれば、辛抱して僕はあいまいさのままでこの世界を去りたいと思っている。きっと、そんなことすらかなわない世の中だからこそ、僕が見つめる景色の中で君が輝いているんだろう。
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第一章
第二章
第三章
第四章
第五章