考えることから逃げない

注意深く見るとは、何だろう。「自分が自分でいること」の意義を考えるとき、別の何かに囚われて、考えることを邪魔するのは、自分のせいなんだろうか。分からないままで終わりたくないと思い始めたのは、たった今からだと思う。言葉にすることは簡単だけど、言葉にすることで、「意味」と「自分」の関係性が終わってしまうことは悲しい。理解とはお金に似ている。一度払ってしまえば、なんとなくの満足感を得られて、その後の探求を止めてしまう。なんとなく自分で分かった気になって終わってしまう。

自分はそうなりたくないなと思ったのは、保坂さんの「考える練習」を少し読んだから。一度でも分かったことを、もう一回、またもう一回と復唱して、腹の中で反芻して物事を噛み砕く。そのことを恐れずに、飽きずにやっていくこと。それこそが人生なのだと、保坂さんは教えてくれた。集中していても、意識が分散するときがある。言葉にせずにはいられないときがあるが、そこでも少し我慢して、探求に努める。一度読むことを辞めて、空の空間を意識で構築して、見つめる。そこで、何回も転んで何回も叫んで、理解を深めていく。それこそが考えることなのではないかと思う。

ソーシャルメディアが普及した今、反射的な理解が、普遍的な理解になってしまっていることが悲しい。分かった気になって、物事を理解した気になっている。なんなら、そのことにすら気づかない人生すらある。自分を縛っているもののことを認識しなければ、縄は解くことはできない。理解とは、分かるとは、そんなに簡単なものじゃない。相手のこともそうだし、何か対象がある物体もそうだ。簡単に分かったと口にするわけにはいかないんだと、僕は世間に刃を向ける。

筆を置くころには、自分が自分でいられるんだろうか。蔑ろにしていた意識を呼び覚まして、これが「自分」ですと言えるのだろうか。いや、きっと言えないだろう。言葉とは、理解とは、考えるとは、いずれにせよ無限の存在であり、だからこそ歴史が続いていくし、時間が存在する。全てが同時に存在してしまったら、何もかも感動がなくなってしまう。テレパシーが、使えなくてよかった。

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