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短編小説「ばばんちの太郎」
太郎は、僕が生まれた時に騒々しいぐらい庭を走り回ったと、母が言っていた。
母が産婦人科から帰ってくるなり、早く見せろと言わんばかりに騒ぎ立てていたらしい。そんな太郎が死んでから、もうすぐ多分十数年が経とうとしている。
太郎は真っ白い犬だった。多分じじが名前を付けたんだろう。ばばんちは上福岡から車で三十分ぐらい、自分にとっては大きな家だった。じじはいつも庭の手入れをしていた。太郎の散歩を毎日欠かさない、元自衛官だった。ばばは、陽気で優しい人だった。心なしか愛が溢れすぎて、ちょっとこの世界には似合わないぐらい、仏のような人だったことを覚えている。
ばばは、僕は中学生ぐらいの時に、じじは僕が高校生ぐらいの時に死んだ。どっちの葬式にも行った。母は泣いていた。
なぜか太郎だけが、自分の心の中で生きている。たまに語り掛けてくる思い出たちを感じている。赤い首輪をしていたんだっけな。花が一面に咲いている庭で、太郎はいつもぐるぐると回っていた。覚えているかな、太郎はどんな思いをしてあの頃を過ごしていたんだろう。
今自分は二十五歳になった。東京の街で小説を書いている。自分でもびっくりするぐらい身体的な不自由を抱えながら、よく生きてきたものだ。あっけない人生なんかで終わりたくないと、多分魂が叫んでいる。ばばんちは、僕が生まれて間もなく行った場所だった。出生して間もなくの記憶は、多分こんな感じだったんだろうと思い出すこともできた。
自分が生まれただけでも、こんなに喜んでいる人がいるんだと、小さいながらに思っていたのかもしれない。小さい頃の自分は、何でもできると思っていた。でも、違った。小学校ではいじめられ、中学校でもいじめられ、でも強く生きていた。
中学で大きな手術をした。側弯症の手術だ。意味が分からないぐらい苦しかったことを覚えている。なんで今、生きているのかも分からない。意識が曖昧なまま、術後三日ぐらい過ごした。あの時、自分の中できっと何かのスイッチが切り替わったんだろう。
高校は埼玉県で一番偏差値が高いところに行った。勉強は好きだった。諦めない精神と、没頭できる力は備わっていた。塾の先生たちも、塾の友達も好きだった。いじめっ子が同じ塾に入ってきたときはちょっと嫌だったが、頭の良さでねじ伏せてやった。
あ、太郎は多分ずっと近くにいることを僕は知っている。精霊として、僕の周りをずっとうろちょろしている。話しかけてくることはないが、港区の大通にトイプードルがいると、いつも駆け寄っていく。おい、と思うが、僕にしか見えないから黙っている。
雪の日だった。多分、太郎が生きている間で最後に遊んだ時のこと。なんだか夢のような感じで、今でも泣いてしまいそうなぐらい覚えている。ばばんちの外に、空き地があった。そこに雪が積もった。小学生だった僕は、騒いだ。太郎が来た。一緒に騒いだ。
雪玉を投げた。太郎が追いかける。でも雪だから、雪野原に落ちたら消える。太郎が困っていたことを覚えている。赤いマフラーを誰かがつけていたっけか。なんとなく覚えている。あの時は母もいた。三人で空き地を駆けた。楽しかったね。
歩きづらかった。僕は生まれつき足が悪いから、いつでもどこでも歩きづらい。でも歩けるだけいいかと思って生きている。人のことを良く見る癖がついてから、心に敏感になった。道の上にある石ころ一つすら見落とさなくなってきてから、人がされて嫌なことは全部把握することができた。
いつしか、今まで感じられなかったものも感じられるようになった。太郎が僕の周りをうろちょろし始めたのは、きっと最近の話だ。空の色、声を感じられるようになった。嬉しかった。僕は独りじゃないと、太郎がずっと言ってくれている。
最近杖を買った。金髪の僕に、木製の杖。道行く人が大体二度見する。もう慣れたどころか、注目されて嬉しい。というか、こんな自分が生きていて偉いだろって思えるようになった。自信は自分で付けていった。何にもできないと思っていた自分が、今ではなんでもできると思っている。
太郎は、あんまり吠えなかった。吠えるときは、なんか嫌なことがあった時。怖いとき、小さいながらにそう思っていた。きっと太郎は、僕と一緒に居たかったんだと、今、声が聞こえた。椅子の下、少し僕の顔を見て、今は寝ている。太郎はどこまでも自由で、呑気で、永遠を心から楽しんでいる。僕の人生が終わったら、今度は僕になるらしい。あっそ、と素っ気なく返す。
生まれてきて、こうして何でも感じることができる。それまで長かった。でも僕は、人のことを悪くいったりした覚えはない。だからきっと、安心して言葉を出せるんだと思う。太郎は、まあちゃんというパートナーがいた。僕の叔母にあたる。もちろん、まだ生きている。
まあちゃんのところにも、太郎はたまに言っている。でも、部屋が汚いから嫌らしい。僕のところが良いと、こっちによく来る。
自由でいいな、呑気でいいね。世界はもっともっと広いんだよと、太郎は目で見て、教えてくれる。
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