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ここじゃない世界に行きたかった。

今日はなんだか、この文章を綴りたい気分だったので、過去を振り返りながらゆっくりと書き残していきたいと思います。今思えば、二十六歳になってから人生を振り返ることが少なかったように思います。ひたすらに人に会って、心休まるときもあまりなくて、なんだか自分を生きていないように感じています。

僕は生まれつき、シャルコーマリートゥース病という、指定難病を抱えながら生きています。末梢神経障害で、末端の感覚が鈍く、足のバランスが取れないです。多分に、日常生活を見る限り、九十歳のおじいちゃんよりも足が悪いんじゃないかと思っています。ほんと、よく生きてるな、と思います。

偉いぞ自分、って思えるようになったのも、ここ最近のことなんです。自然が溢れるところに行きたいけど、足がおぼつかないことが怖くて行くことができない。東京の街がだんだんと歩きづらくなってきて、正直もういいかな、とも思ってしまう。

運動もできなければ出かけることも苦しい、そんな人生ですが、僕のことを助けてくれたのは、紛れもない想像する力、意識の世界との出会いでした。

意識の世界って言うのは、僕で言うと、円みたいなものです。中心に僕が見たものがあり、そこから波紋のように想像が広がっていく。

小さい頃は、人目をかなり気にしていたと思います。すれ違う人間が自分の歩き方を見て、足に目を落とすあの瞬間の屈辱。今は気にしていないけど、思春期の頃は特につらかった。でもその時に得た視点が、僕の人生を生きる上で大きな恩恵をもたらしてくれています。

人目を気にするからこそ、その人間が何を考えているのか、どんな気分なのか、目を見ただけで大体わかるようになりました。便利だけど、人が多いところは大の苦手です。色んな感情が堰を切ったように流れ込んでくる感覚、嫌いです。

生きづらい世界に生まれてきました。二本足で中途半端に歩けてしまうから、障害に頼って生きることもできない。普遍的に普通の人間と同じにされる。

社会人も経験しました。利益主義、利己的な人間の存在に吐き気がしました。ここが世界の中心だと言わんばかりに胡坐をかいて、他人の幸せなんか微塵も考えていない、誰も優しさなんて持っていない。人間の根源的なものを感じられない人間と一緒に居る意味なんてないと、直感的に思い始め、社会人を三年間経験した最後の日、涙が止まらなくなってやめました。

大学生のころ、自分の想像力が豊か過ぎて、精神病棟に隔離入院されたこともありました。宇宙とか神様とか、そういう領域まで想像が広がってしまって、この世界には合わなかったらしいです。でも、その時に考えたこの世界の本質は、その入院から四年経った今、この世界に思考がだんだんと広がってきています。僕からしたら、気付くの遅すぎ、と少し腹立たしいぐらいです。

思えば小さく生きているなと思います。身体障害と精神障害を抱えて、普通に生きようとしても、そりゃ無理な話。だからひっそりと、自分なりに生きることが僕のできることなんです。

普通に生きている人間の中でも、僕は他人の人生を尊重しない人間を、特段軽蔑するようになりました。怒りが収まらないときもあります。人生は限りなく自由なのに、自分のコントロール下に置くことを目的に、上っ面のコミュニケーションを取ろうとする人間を見ると、吐き気がしてきます。でもだからこそ、なんだか生きづらい。そういう人って、多くないですか。ていうか社会人やってたら、大体そういう人じゃないですか。

細かいことを気にしすぎな性格、目、心だから、些細なことにも敏感になります。限りなく静かなところで、意識の世界でひっそりと生きていたい。僕の願いであり、日々です。

この世界は腐ってる。僕が今言えることです。人間は欲求に埋もれ、表現するものは減っていき、この地球上にしかないお金というものに左右されている。自分のことを最優先し、他人の痛みにすら鈍感になって、根源的な愛を感じられない感性。

そんな生きづらい社会の、ひっそりとした逃げ場、秘密基地になればいいなと思って、この愛は猫の眼のアカウントを作りました。壮大な世界への唯一の抵抗であり、僕の表現場所。自由に生きて、何が悪い。迎合するぐらいだったら、僕はこの世界に居なくていい。

自分のことを大きく見せることに必死なこの世界。口を開けば成長、成功のために何ができるかを考える毎日。何もかも嫌になる毎日ですが、綴ることぐらいしか僕にはできません。僕が生きるには、正直敵が多すぎます。でも敵だらけでいい。それが今回の人生の、僕の試練なんだから。

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海野深一
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