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今日もまた、偶然を、曖昧を愛す。

何もかもが嫌になるときがある。分からないまま、日曜日を過ごして、気づいたら月曜日になっている。自分とはなんなのか、考えれば考えるほど、大きな井戸に一人で浸っている気分になって、孤独に苛まれる。きっと僕たちは、孤独からは逃れられないし、孤独を愛する力も持っている。僕に友達はいらないと、頭のなかでおおきく息を吸う。

呼吸は、口からしか出来ないのだろうか。飛び込んでくる世界のなかで、なにを基準に物事を考えているんだろうか。人間は皮膚でも呼吸をしているという。自分が知らないところで、体の大半が動いている。そんなことを考えると、自分は宇宙なんじゃないかと錯覚する。

見えないものを数えることができたら、どうなっていたのだろう。例えば光の粒を数えることが出来たとして、海の波を象ることが出来たとして、一体なにが起こるんだろう。きっと世界は有限になり、つまらないものになってしまうのだろう。数えられないからこそ成り立っているものがあるし、数えられないからこそみることが出来る夢がある。

美しい文章を読んだときには、僕の心はなんだか満たされる。きっとそれは、この世界の無限を感じているからなんだろうと思う。有限を感じることは自分にとってはとても痛い。無限に感じるからこそ、これから先も曖昧な世界で生きようと思える。

曖昧さを愛しているところがある。見えない世界に憧れているところがある。きっと僕たちは、具体的すぎるものを好まないのだろう。芸術を愛し、掴めないものを掴もうとすること、それこそが生きることなんだと思っている。完全な白と、完全な黒はない。それを知っているだけで、この世界は彩りに溢れる。そんな気がしている。

小さく息を吸う、大きく息を吐く。この呼吸にも、見えないものが詰まっていると思うと、なんだか気持ちが楽になる。少しずつ、本当に少しずつ、僕たちはそれぞれ違う。それを知っているだけでも、人に対する考え方も変わってくる。

判断する力、考える力、捉える力。それがきっと、この人生では大切なんじゃないかと思うんだ。それがきっと、人生を彩ることである。頭を使うこと、考えることを辞めないこと。それがきっと、この世界で僕たちが生きている理由になっているから。

普遍的な考え方なんてない。固執してしまった時点で、芸術家としての生命は終わりだと思っている。それがきっと、色を捉えるということであるのだと思う。でも、本当はなにも捉えることなんて出来なくて、捉えた気になっているだけなんだろうな。それが楽しくて生きている。今日もまた、偶然を、曖昧を愛す。

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愛は猫の眼
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